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<身体>についてのレッスン

※準備稿の暫定公開。内容に若干欠落等があります


わたしが意図するのは、新しい姿への変身の物語だ。 (中略)
世界の始まりから現代にいたるまで、とだえることなくこの物語を続けさせてくださいますように!
   オウィディウス『変身物語』

今年こそ、逞しく美しいカラダを手に入れる!
   月刊誌『Tarzan』1997年2月号表紙

健康のためなら死んでもいい!
   ビートたけし



0. 記号と身体
 私たちは、日頃じつに多種多様な<カラダの問題>を生きています。病気とか健康とかのカラダの状態だけでなく、カラダのかたち、カラダの使い方、カラダの位置、他者のカラダとの関係など、様々な<カラダの問題>。カラダとつきあうことはいってみれば人間の条件みたいなものなのですが、その<カラダの問題>をとおして、記号とか意味の問題を考えてみるとどうなるだろうかというのが、この章での問題設定です。

 <身体>というのは、いつでも、まず人間の<記号>が真っ先に書き込まれる場所でした。カラダからことばを発するようになるのが人間だということが身体と記号との結びつきの根本にはありますが、それだけではなく、身体にはかならず記号がまず付けられています。たとえば名前をつけることによって身体には記号が書き込まれますね。しかし、それだけではありません。入れ墨とか、割礼とか、元服とか、その他様々な身体の変形とか、服装とか、変身(髪の色を変えたり)とか、化粧とか、整形とか、身体を記号に変え意味のあるものにすること、そのことに人間は昔からやっきになってきました。<文化>とは人間の身体を<記号>に変えることから始まるとさえいってもよいかもしれませんね。

 現代人の生活においても、<身体>は、もちろん最も基本的な人間経験の次元をつくりだし、じつに様々なレヴェルの問題を投げかけています。しかも、「生身の」といわれるような身体のあり方よりは、記号としての、あるいはイメージとしての<身体>の方が重要性を帯びるという、身体の<記号化>や、<脱-現実化>といわれるような現象がますます進行してもいます。たとえば、現代ではさまざまな<身体イメージ>がまず流通し、ひとびとはそれらの身体イメージをもとにして、自分の身体を整形し、欲望をかたちづくり、身体を感じとるといような状態になってきている。服装や髪型や化粧やアクセサリーなどにかぎらず、身体の使い方やしぐさ、身体のポジッショニングの仕方、ことばのしゃべり方などをめぐる<モード現象>はその端的な例です。また、メディアの技術は、ひとびとの身体感覚を「生身の」身体の範囲よりもはるかに大きな規模にまで拡張している。「身体拡張」技術であるメディアによって、「身体感覚」の方は、「生身の」身体を超えて視たり聴いたり話したりしている。あるいはまた、それらのメディアが繰り広げる身体イメージは、多く「記号と化した身体」である俳優やタレント、スター達によって担われて成立して流通させられている。<身体>の意味は、上に引いたTarzan誌のコピーにせよ、巷にあふれる「広告」や、あるいは「ヌード写真」にせよ、あるいは、「健康」についてのメッセージにせよ、メディアの言説によって決定され流通される傾向にあるのです。

 そのとき、どのようなことがおこっているのか。なにが、<記号と身体>をめぐるプロブレマティックでは、おこっているのか。そのメカニズムとはなにか。そのようなことを考えてみるのがここでの狙いです。

 <身体>は、だれしも、ひとつしかもたないという意味では、統一的なものなのですが、しかし、<身体>が成立する次元は、複数で複雑に絡み合っています。生物的身体(サイボーグ)、社会的身体、芸術的身体、性的身体など、様々な次元が入り組んでいます。様々な領域に身体はまたがっている。その連関を、<記号>と<意味>という観点から考えてみるとどのようなことがいえるのか。何を知ることができるのか。そのことを考えてみましょう。


1. 精神分析が教えること:「鏡像段階」(ジャック・ラカン)
 人間の<文化>と<身体>との関係、人間が<人間>となる条件をかたちづくっている<身体>と<イメージ>と、そして、<イメージ>とか<記号>(とくに<言語記号>)とかが成立する場としての原初的な<場>(のちに、<メディア>となるもの)との関係を考えるときに、手がかりにされるのは、<ナルシスの神話>です。人間の<自我>とか<主体>(<自我>と<主体>とは、かならずしも同じではありませんが)の成り立ちを考えるためにも、この神話は核になります。<身体>と、<イメージ>に始まる<記号>、<自我>あるいは<主体>、そして、それらを成立させている表面としての<メディア>、という要素のすべてがそこには揃っているからです。

 「ナルシスの神話」(ギリシャ語では、ナルキッソス)は、もうみなさんご存じだとおもいますが、ラテン詩人のオヴィディウスの『変身物語』に読まれる「ナルキッソスとエコー」の話が有名ですね。また、図像的には、17世紀末のイタリア画家カラヴァッジオによって描かれたナルシス像などがよく知られていますね。ナルキッソスというのは、青い水に住むニンフ、レイリオペが、河の神ケピソスによって水の中に閉じ込められてレイプされて生まれた子供なのですが、この子が、老年まで生きながらえることができるかどうかをたずねられて、両性具有の知恵者テイレシアスは、「うん、みずからを知らないでいればな」と答えている。これらの、生まれとか予言とかは、それ自体、いろいろと面白い要素を含んでいるんですが、ここではふれません。とにかく、かれは、16歳を迎えていて、大変な美少年で、男の子も女の子も彼に言い寄った。「が、そのきゃしゃなからだつきのなかには、非情な思いあがりが隠れていて、ひとりの若者も、ひとりの娘も、彼の心を動かすことはできなかった。」そして、エコーというニンフが彼に恋をするところから、ナルキッソスの物語は始まります。泉の水に映った自分の姿に恋いこがれて死んでしまうにいたるという、それ以後の展開については皆さん知っているでしょうし、その解釈については、すこし後回しにします。

Narciso
ナルシス(カラヴァッジオ)


 さて、ここでは、ある代表的な精神分析理論を参考にしながら、<身体>の問題は、なぜかくも私たちにつきまとっているのか?しかも、それは、どのように私たちにつきまとっているのか? ということを、考えてみることから始めたいと思います。答えの方を先にいってしまうと、<身体>は、私たちの<意味生活>のベースをつくっているのだということになるのですが、私たちが 、「自分」を感じることと、自分の「像(イメージ)」を経験することは切り離せない関係にある。それは、どのようにしてそうなるのか?そうならざるをえないのか?人間は、いったい自分の「像」とどのような関係を生きているのか?このような問いの連関のなかに、私たちの問いは踏み込んでいくことになる。そして、このことと、人は、どのように、「記号の生活」のなかに入っていくのかという問題とは完全に重なることになる。そのようなことを示すのが、このレッスンの第一段階です。

 この問題を考えるとき、20世紀をとおして参照されてきた理論は、フランスの精神分析家ジャック・ラカンが提唱した「鏡像段階」という考えです。この説は、なぜ人間は他の動物とちがって、「コトバ」をはじめとする「記号」によって自分の世界をつくり出していかなければいけないかを説明したものです。それは次のような内容のものです。

 人間の子供は、早く生まれすぎるという特徴をもっている。他の動物、たとえば、馬の子供は、生後数時間後には立って動くことができる。ところが、人間の子供は、運動調節能力をもたない。つまり、身体を統一的に把握しコントロールすることができない。身体はまだカオスのような状態で、様々な興奮のエネルギーに横断された無秩序な状態のままなのです。おっぱいを飲みたかったり、満腹だったり、うんちをしたり、うんちをためたり、それぞれの身体部位がばらばらに勝手なことをしていると考えればいい。ラカンは、人間はそのときまだ、「人間(homme)」ではなくて、「人間もどき=オムレツ(hommelette)」の状態なのだ、と述べています。このようなカオスとしての身体の状態から、どのようにして、ひとつのカラダとして人間の幼児は自分を把握するようになるのかを説明する理論が「鏡像段階」の理論なのです。

 ラカンは、臨床研究によって、幼児には、こうしたカオスの状態から、「自分の身体」の<かたち>を幼児が獲得する段階へと移行する時期があることに気がついた。その段階をこそ、ラカンは、「鏡像段階」と呼んだのですが、それはつぎのようなことです。それは、生後6か月から18か月のあいだに当たる時期なのですが、このころ、子供はまだ自分で自分の運動を統御することができない。しかし、鏡を前にした幼児の行動を観察していると、鏡に映った自分の像をひじょうにうきうきとして視ている。この時期、道具を使う知能においては、幼児はチンパンジーより劣っているのですが、人間の子供はすでに自分の像を鏡のなかに見てとることができる。お猿であれば、それが生き物でなくて像であることが分かってしまえば、そっぽを向いてしまうのですが、人間の子供は、いろいろな仕草をして鏡に対して遊ぶようになる。自分の身体とか、周囲の人物とか、周囲の物とかに、自分の鏡像を結びつけて遊ぶようになる(この<遊び>という行動は、現実をマスターする(=統御する)という、<記号>とか<象徴>の次元の活動の成立を考えるうえでとても重要な問題をはらんでいるのです)。

 そのように、まず、像(イメージ)において、自分の身体のまとまった<かたち>を把握し、統一した「自己の身体」を運動調節によって組織していく。これが、人間が<自分>をつくり出していくやり方だというのです。<像>というものを発見して、それを通して、<自分>というものをつくり出していくのだ。そうやって、自分が<かたち>づくられていくのだ、というわけなんです。しかも、鏡の表面には、「自分」を支えているお母さんとか周囲の人物の像が映っていて、様々な物も映っている。そうした様々な配置のなかでの、自分の像として幼児は自分をつくり出していくわけです。<像>の方が先にあって、<自分>が成立するんだ、というところが重要な点です。

 考えてみれば、これはとっても変なことなんですね。私たちは、鏡の表面上の像が<私>の像だと思って見ているわけですが、ここで問題となっている「鏡像段階」の経験においては、それは<私>をやがて成立させる<元になる像>であって、その像の成立する以前に<私>の本体があるかといえばそれはないんです。そこにあるのは、あるランダムな興奮のマグマの塊で、統一を欠いたばらばらな身体のようなものだ、ということなのです。ラカンは、精神病者の夢には、バラバラに寸断された身体のイメージがよく出てきて、そいういうのは、身体を統一する<像>が崩れさった夢なんだといっています。

 <想像>するというのは、このように、像を想いえがく、像を自分の心のなかにつくることによって、自分自身をつかむという働きなんです。こういう像の経験の次元の成立を、ラカンは、「想像界(イマジネール)」の成立と呼んでいて、その成立を経て、<自我>のもとがつくりだされ、やがて、それが、<私>という一人称の雛型になるのだと述べています(ちなみに、私たちが問題にしている「鏡像段階」についての論文は、「精神分析の経験がわれわれに明かす<私>の機能を、形成するものとしての<鏡像段階>」というかなり長いタイトルをもつものです)。

 さて、私たちにとって、ラカンの「鏡像段階」説が示している重要なポイントを整理しておくと、それはおよそ次のようなことです。

1)<私の身体>という統一された<かたち>は、鏡面という媒介物をとおしてしか成立しない。つまり、鏡面は、<私>のもとになる<像>を成立させる原初的な<媒質=メディア>だということです。この原初的なメディアが成立する以前には、映し出されるべきもとの私の身体が存在するわけではない。その媒質の表面の下には、身体を横切る無秩序な興奮のエネルギーのカオス、そこにおいては、人間のかたちが崩れてしまうような欲動の渦、死の衝動が渦巻いているというわけなのです。

 「ナルシスの神話」が示しているのは、じつはこのような物語です。自らの像の向こう側には、死しかない、からだの外にある像から自分は「出る」ことができない。そのようなパラドキシカルな状況がナルシス神話には描かれています。この点については、あとで詳しく述べます。

2)しかも、その鏡面に成立する像は、<他者>たちの像との関係につねにおかれている、ということ。これを、<間主観的な関係>といいます。人間は、まず自分として孤立して成立するのではなくて、つねに他者の方へと開かれた間主観的な場に生み出される。<私>の<像>は、つねに、他者たちの方へと引き渡されてしまっているということなのです。

3)さらにいえば、この場合、正確にいうと、<私>が成立する以前の段階ですから、将来<私>になっていくであろう像は、“私”(括弧付きの)の身体のカオス状態から離れたところに生み出されていく。その<像>と、快・不快の交錯する<身体のカオス>とは、分裂していることになります。内界と外界、身体のこちら側あちら側とがスプリットされた関係において、<自我像>は成立する。このことが、人間の<無意識>とか<欲動>といった問題を引き起こすことになるのだ、とラカンは考えています。自己像が、つねに、不安や居心地の悪さといった気分をともなってしばしば知覚される原因には、そのような問題が絡んでいるといえるかもしれませんね。

 さて、以上に紹介したラカンの「鏡像段階」の理論からだけでも、人間の世界の成立について、幾つかの興味深い一般的事実が明らかになります。それは、1)人間が<自分>をつくりだすためには、鏡面のような<メディア>が必要であるということ。つまり、<メディア>は、人間にとって原初的な<環境>であるということ。そして、それにもとづいて、「自分の原像」と「可視性の空間」とが同時に成立するのであるということ。2)そのメディアにおいては、自分の<像>は、すでに、<他者>の場へと向けられているのであるということ。そして、3)自分は、<像>に先だって成立するのではなく、<像>によって「先取り」されるものであること。このことが、<時間>の問題を引き入れます。<私>とは、私がそのようになっているであろうと予想(先取り)される時間性(これを、ラカンは、「前未来時制」と呼んでいます)において成立するものである。そしてこのことは、人間の欲望が、そうなっていてほしいという「前未来」時制において成立することと関係しているようです。『Tarazan』誌のコピーでいえば、今年はこうなっているであろうというカラダの像の先取りを欲望のシナリオに据えている。「夏までに逆三角形になる」とか、いずれも、未来時において像が完成している姿を欲望させるように、同誌のコピーはできています。

 人間は、想い出したり、期待をしたりするときに、「想像」という「像(イメージ)」の活動によって、それをおこなうのですが、そのような「像(イメージ)」の働き(「想像力(イマジネーション)」、とか、「想像的な次元(イマジネール)」とかいいます)には、このように、人間の「主体」の成立にとって、重要な問題がひそんでいるわけですね。

 ところで、「像(イメージ)」も、何かの代わりにあるモノ、代わりをしているモノという意味では、記号です。もちろん、言語記号とはちがった記号ですが、ラカンにとっては、鏡像段階の「像」は、より社会的な記号としての「コトバ」の方へ(それを、ラカンは、「象徴界(Le symbolique)」と呼びます)、像によって映し・映し出されるという二項関係をこえて、そのような関係全体に意味を与えている第三の秩序としての<ことばの次元>へと、人間の身体を組み込んでいく媒介の役割を果たしている次元(ラカンのいう「想像界(l’imaginaire)」)をつくるものなのです。


 さて、ここで、先ほど中断しておいた、「ナルシスの神話」にもどってみましょう。ラカンの「鏡像段階」論の光に照らしてみれば、「ナルキッソスとエコー」の逸話は、じつは、ほとんど、「鏡像段階」をへてコトバの次元へとむかっていく人間の主体の成立とは逆のベクトルをもつ物語であるということがわかります。ナルキッソスに激しく恋をするのは、「響きわたる声をもった」ニンフのエコーなのですが、しかし、彼女のことばには、「話しの終わりだけをくりかえすことだけはでき、聞いたことばをそのまま返すことは許されている」だけである。彼女は、<他者のことば>の方へとナルキッソスを誘う存在であるのですが、じつは、ナルキッソスのことばを反射するだけの存在にすぎない。ナルキッソスは、ことばの面でも、<他者のことば>の方へと導かれる契機を欠いてしまっているわけです。そして、そのことばの存在も、ナルキッソスにはねつけられることによって、身体を失って空気のこだまだけになってしまっている。ナルキッソスはそういう意味でも、人間の成長とは逆のベクトルのなかにおかれている。そして、<ことば>のを通して他者の方へむかう道を自ら断つことによって、かれの「鏡像」の方へと立ち戻っていくことになるのです。

「狩猟と暑さで疲れ切った少年は、ここに身を投げ出した。あたりのたたずまいと、泉とにひかれてやって来たのだ。渇きを静めようとしている、別の渇きが頭をもたげた。水を飲んでいるうちに、泉に映った自分の姿に魅せられて、実体のないあこがれを恋した。影でしかないものを、実体とおもいこんだ。(中略)不覚にも、彼はみずからに恋い焦がれる。相手をたたえているつもりで、そのじつ、たたえられているのはみずからだ。求めていながら、求められ、たきつけていながら、同時に燃えている。」

ナルキッソスの悲劇は、自己像には他者の場をとおしてしか近づくことができないのに、自己像を直に欲望することによって、自己の身体像から外に出られなくなるという背理にあります。かれが、鏡像を成立させていた水の表面をかき乱して、自己像の成立以前の身体的興奮のカオスのような「狂乱状態」へともどって死を迎えるのは、ちょうど「鏡像段階」とは逆の方向へと向かった結末なのです。ナルキッソスの言葉は、そのような事態を明白に示しています。

「みずからに恋い焦がれて、燃えていたのだ。炎をたきつけておいて、その炎をみずから背負いこんでいる。どうしたらよいのか?わたしが望んでいるものは、わたしのなかにある。(中略)このわたしのからだから抜け出せたなら!愛する者としては奇妙な願いだが、わたしの愛するものがわたしから離れていたら!」


2. 「変身物語」:いま身体について考える…
 さて、以上で、人間の成立において、身体がいかに重要な問題の次元を構成しているかについては、少し分かっていただけたのではないかと思うのですが、それでは次に見せる写真をとおして、よりアクチュアルな問題にまで論点をいっきょに拡大して、身体を考えてみたいとおもいます。

(※ここに森村泰昌の写真を準備中)

 古今東西の様々な名作絵画のなかに入り込む「セルフ・ポートレイト」写真によって活躍しているこの人をご存じの方もいまでは結構たくさんいるのではないかと思うのですが、いまこのマリリン・モンローのピンナップのなかに入り込むことで、この人はいま何をしているのでしょうか。その答えは、本人の言によると次のようです。

「最近私は「女優」というテーマに凝っております。ホンモノの女優さんというものは、クレオパトラとかスカーレット・オハラとかいろいろな役どころを演じるわけですが、私は大それたことに、演ずることがプロである女優さん自体を変身型セルフポートレイトの展開として演じようと挑戦しています。まあ、身のほど知らずです。 (中略)

 私はなにも「懐かしのナントカ」ってやつをやりたいわけではないのですね。それにソックリショーにならないといけないとも思っておりません。でなにがやりたいのか。なののために自分がいろいろな女優に化ける「女優シリーズ」なるものを手がけているんだろうか。

 ものすごく漠然とした答えかたをすると、「そうしたいから」としか本当のところ答えようがない。モノ作りには万事そういくところがあります。これがないと手間暇かけての制作はやれませんもの。でもこんな答えでは、誰もわかりはしません。独りよがりかなとも思います。それでもうすこし考えてみたのですが、こういうのはどうでしょうか。やはり飛躍に聞こえるかもしれませんが、「自分はこれからどう生きようかな、ということを考えるためにやっている」。現在は二十世紀の終わりで、やがて二十一世紀なりますから、「これからどう生きるか」というときの「これから」というのは確実に二十一世紀を含みます。この二十一世紀としての「これから」を考える手立てとして二十世紀のことを振り返ってみるのも無意味ではない。

 そしていろいろな二十世紀的産物のなかで、私は映画という文化を取り上げてみました。映画という切り口から二十世紀を検証できるのではないかと、なんとなく感じたのです。この映画というスクリーンの輝きの中心でさらに輝くのが女優です。女優の存在なしに映画は語れない。女優を語ることは映画を語ることであり、映画を語ることは二十世紀を考えることであり、二十世紀を考えることで見えてくる二十一世紀的なものがあるとすれば、そのことをテコにして、「私はこれからどういきるのか」の指針を見出すことも可能かもしれない。とまあこんなふうに逆算したのでした。女優という存在と自分自身をどう切り結べるかという実験と二十一世紀の世界像を発見することとはつながっているのでは、という思いにいたったわけです。」
   森村泰昌『美術の解剖学講義』231-233頁


  二十世紀について考えているところだ、ということなのですが、この森村氏の問題提起は、じっさい、二十世紀における「身体」と「自己像(セルフポートレイト)」について、かなりのことがらを教えてくれるものなのです。「二十世紀といえば映画」といっていますが、これをもうすこし一般化すると、二十世紀は<メディア>の大きな変化の時代だった、映画はそのなかで「大衆メディアの時代」をつくりだしたことと考えあわせれば、二十世紀のメディアのなかで自己像は、そして身体は、どんな状況におかれているのかという問いを立てているのだ、と理解できます。<メディア>の鏡面が、映画のスクリーンのようなものにおいて成立し始めた、そのような<像>の時代、<イメージ>の時代が二十世紀だった、というような問題系がそこに指されている。そのようなメディアの表層面において<自己>とか<主体>とかはどうなっているのか、...こんなふうな問いがここでは立てられていく余地があるのです。ナルシスの鏡面が、<像>のかたちづくられる他者との関係性の場であると同時に、<感覚の表層(膜)>であったことを思い起こしておく必要もあります。<メディア>が人間の鏡像として成立する時代は、原理的には、人間の自己が<イメージ>として問題化する時代であると同時に、<メディア>が感覚の<皮膜>になる時代でもあるのです。「女優」という問題提起も、森村さんの説明にはあるのですが、「女優」とは(「男優」はその補完的相関項ですが)、<記号化された人間>というふうにより一般化して理解すると問題の所在がよりはっきりするかと思います。ふつうの人間、あなたとかわたしのような、もまた、「記号化された人間」(<鏡像段階論>などで説明される)であるわけですが、俳優というのは(そして、ウオーホルが描いたような<スター>となるとさらに)、そのような人間の記号性を<代表(represent)>するような存在、二乗された<記号人間2>と考えてもよいと思います。(俳優は、ある意味で複雑な「自然記号」と理解できるのですが、それは機会があれば別に論じます。)

Marilyn
マリリン(アンディ・ウオーホル)


 こんなふうに一般化していいかえてみると、二十世紀という視覚メディアの時代に、自己とか主体というのは、どんなふうに<身体>を介して記号論的に成立しているのか、というような問いを、このピン・ナップ写真のなかに入ることで、森村さんは、ここで「考えている」のだな、と分かってくるのです。

 ラカンの「鏡像段階」論が、そのまま<メディア>論としても読めるという話はすでにしましたけれど、その<メディア>をどう理解するかについて、有名な「身体拡張」論を展開したのは、マーシャル・マクルーハンです(『メディア論』)。マクルーハンの考えでは、メディアは、身体を延長したものである。例えば、写真機なら、写真機が、テレビ・カメラならカメラが、眼の感覚器官の延長となる。電話なら、聴覚器官の延長であり...。という考え方です。これは、人間にとって<技術>とはなにか、という問いとも関わる議論なのですが、この「身体拡張」論をすすめて二十世紀を考えてみると、二十世紀は多様なメディア技術が発達することで、人間の<身体>が、ものすごく拡大した時代、しかも、その拡大した感覚相互の関係がそれ自体大きく変化した時代だといえます。この「感覚比率」という考え方も、マクルーハンの提唱した概念なのですが、簡単にいうと、人間の五感の相互バランスが、それぞれの文化・時代において、違ってくる。たとえば、活版印刷技術の発明され活字本が流布される以前の、写本時代には、音読という聴覚がコミュニケーションのなかでより重要な比重を持っていた。聴覚がより優位な文化があったというわけです。しかし、活版印刷の時代以後は、黙読という眼で読むというコミュニケーションが比重をまして視覚型の人間が優位を占める。そこで、「遠近法」に始まるルネッサンス以後の近代技術や、「内面」にもとづく文化や、「個人」という価値だとか、それをまとめあげる「国民」や「国民国家」とかが出現していくる、というような議論です。これが、メディアが人間の「感覚比率」を変えるというマクルーハンの考え方で(その代表作は、「活字人間の形成」というサブタイトルをもつ『グーテンベルグの銀河系』です)、メディア的身体の変化と文明の変容とを結びつけた刺激的な理論です。

 こんなふうなメディアの問題と重ねあわせて、先ほどのことを考えていくと、<身体>の問題が、幾つもの次元にまたがって、ものすごく大きな拡がりをもっていることがわかってくるのではないでしょうか。

 マクルーハンの<メディア=身体拡張>論が表しているのは、メディア技術によって担われる<文化の身体>といような問題の所在ではないでしょうか。「鏡像段階」説が示していたのは、人間の<心的現象>と<身体>との境目、<想像>の発生のレヴェルの問題だったのですが、<メディア>というパラメーターを増やして考えると、それは、一挙に、<文化の身体>といった問題にまで拡張される。<メディア>技術は、人間の身体の<変身>を引き起こすというわけです。


3. 身体と主体
 さて、以上で、<身体の意味環境>を成立させる、<心的条件>と<技術的条件>についての考察をいちおう一通りマスターしたことにして、それでは、そのようにして成立している<身体>をめぐって、何が問題になっているのかを考えてみたいと思います。それは、ひとことで、答えを先にいうと、主体化のもととしての身体という問題系です。

 「鏡像段階」の項で、<身体>像が、<他者>たちとの関係性の場、<間主観性の場>においてしか成立しない、ということを説明しましたね。<私>の像は、他者たちの像との関わりにおいてしか成立しない。それ以前には、<私>の姿はない。これは、人間がもってうまれた、<仮面舞踏会(マスカラード)>のような関係です。そのゲームに参加するには、<仮面>をつけていなくてはならない。仮面舞踏会には、<仮面>をつけていない者は入場できない。しかも、その仮面は、お互いがお互いを意味しあう関係になっている。さらにいえば、仮面の下に、私の素顔があるわけではない。<仮面>をつけることで、私ははじめて<私>となることができるのです。<像(イメージ)>のレヴェルですでにこの状況が準備されることはすでにのべましたが、さらに、<言語>という別の次元が介入すると、この状況はさらに確固としたものになります。なにしろ、人称代名詞の「私」は、誰であろうと、その仮面をつけることで「私」になる、という原理になっているわけですからね。

 人称代名詞「私」の例が端的に示すように、<身体像>をめぐって成立する間主観的な場は、<主体の成立>がかけられている場でもあります。<主体の成立>を、より正確にいうと、それは、<主体化(assujetissement/subjection)>という用語で表されます。<主体化する(assujetir/subject)>とは、主体として生み出すという意味であると同時に、従える、従属させるという意味でもあります。つまり、その他者との関係性の場のゲームの規則に従属させる、従える。そのことによって、<主体>として生み出す、という意味なのです(「主体(sujet/subject)」という語の語源をここで想い出しておきましょう)。とりあえず、身体像の<仮面舞踏会>に引き入れられることによって、人間は、舞踏会の間主観的なルールに<主体>として従属させられる。そのように、従属させられることによって<主体>となる、というわけです。この関係の、基本形は、<視る/視られる>の関係(サド・マゾ関係)ということになるでしょう。フランスのジャン・ジュネという作家は、このような根源的な視線による支配関係、権力の関係を、かれの作品の基本構造に据えて創作をおこないましたが、この<仮面舞踏会>は、<視る/視られる>という眼差しの戦いの場、ミクロな権力のせめぎ会う場、たえず支配され支配する、そのことによって主体化が成り立つ関係性の場ということなのです。どのように<視る>かは、同時に、どのように<視られる>ポジションに身体をおくかということと切り離すことができない。<身体>が、<主体化>の基盤となっていることで、<主体>はこのような眼差しの間主観的なゲームのなかにいつも巻き込まれているわけです。それが、<視る>という行為の不可避的な状況であるとすれば、まして、<言語>という、より確固としたルール(ラカンのいう「象徴界」)の場に、この主体化のプロブレマティックが移行しますと、<言う>という行為において成立する<主体>は、もっと制約性の強い従属関係(subjection/ assujetissement)に巻きこまれていきます。<コトバ>が社会性の基礎であるというのは、<言う>という行為において不可避的に働いていることとなる、このような<従属化=主体化>における原初的な権力関係と切り離しえない問題なのです。<私>とは、<従属化された>身体、<主>体化された、<体>である、といってもいいですね。この点で、日本語の主<体>、客<体>という言葉に含まれている、<体>は、このような状況をよく表してくれています。以上は、人間は、カラダをめぐる<意味のたえざるせめぎ会いの場>に生まれてくる、とまとめられますね。<社会性>の成立の基礎とは、記号原理的には、このようなものであるのです。

 どんな<イメージ>の断片にも、あるいは、どんな<コトバ>の切れはしにも、以上のような、身体とか主体とかの問題が潜んでいる、ミクロな権力は、どんな<視る>行為にも、どんな<言う>行為にもつきまとっていて、それが<社会性>の基礎をつくり出している。以上からは、そのような命題が導き出されます。そこで、最後に、<身体>にとって<社会>とは何か、という問題系を考えて、このレッスンを終えることにします。


4. 記号の身体学/主体の政治学
 私たちの日常生活には、無数の微細なイメージだとか、コトバの無数の断片だとかが、行き交っている。「それらすべては記号だ」と記号論者はいうのですが、以上からわかるのは、じつは、それらは記号 −−だけ−− ではありません。最初のところで、記号とは、意味スルものである、という定義を述べましたね。しかし、意味スルというのは、つねに、主体ニトッテ意味スルということでもあるのです。そして、<主体>は、いま見てきたように、<身体>と<記号の秩序>とをめぐる問題系に根ざしていることが分かりました。したがって、流通する無数のイメージとかコトバの断片は、<主体化>の角度から、理解される必要があるのです。ソシュールは、「記号学」は、「社会生活における記号の生活を研究する学」であるといったのですが、記号の研究は、必然的に、社会の、あるいは、社会性の研究であるのです。

 このとき、<記号>・<主体>・<身体>という連関のなかで<社会>は考えられることになる。<記号>を考えることは<身体>を考えることであり、<身体>を考えることは<記号>を(あるいは、より一般的に<意味>)を考えることになる。<主体>と<社会>とを結ぶ問題の環は、<記号>と<身体>を結ぶ問題の環と同じ連続性においてつながっていることになる。ここから、引き出されるのが、<記号の身体学>と<主体の政治学>との不可分な関係ということであるのです。

 このような視角から、<主体化=従属化>をめぐって、<社会>という<意味のせめぎ合い>のなかで、どのような権力が働くのかを考えてみましょう。ここでは、主体化をおこなう権力の作用の仕方 −−それを、ひろく<政治(ポリティクス)>とよぶことにしましょう−− を次のふたつに分けて考えてみることにします:

 (1)<記号>に働きかける政治:<記号>戦略、<イメージ>戦略
 (2)<身体>に働きかける政治:<訓練>、<規律>、<監視>などの戦略

これら二つの戦略は、完全に分けることができないものですが、ここでは、支配的な側面がどちらであるかという分類だと考えてください。<文化>とか<社会>とかいわれるものは、こうした無数の戦略が行き交う場として成立しています。

(1)記号に働きかける政治:「記号支配(セミオクラシー)」

 ありふれたイメージというものがあります。「なんとかのイメージ」とか、「どんなタイプ」とか、そういうイメージのことを、<ステレオタイプ>とか<クリシェ(紋切り型)>とか呼びます。それらの流通する<イメージ>はいったい何をしているかというと、<主体化>をしている、そして、そのことによって、<社会>をつくりだしているのです。

 例えば、前節で話題にしました、ピンナップ写真の例、いまの日本では、週刊誌などに掲載され「ヌード写真」と呼ばれているものですが、ヌード写真だって、やっぱり社会をつくりだしているのです。どのようにしてかというと、<性的主体>をつくる<主体化>によってなのです。<主体>は、この場合、被写体の女性ではありません、それを対象として成立する<欲望の主体>の方なのです。眼差しのゲームに引き入れられることによって、そのつどあなたは、欲望の主体として形成=整形されるのです。「ヌード写真」を成立させている性的権力とその神話作用については、すでにさまざまな研究がありますが、そこには、男性中心的な(より正確な精神分析用語でいうと「男根中心的な」)欲望の図式による主体の生産がかけられているのです。

 同じように、結婚式場の広告写真をみてごらんなさい。そこには、こどもの頃から、童話やおとぎ話にはじまって、少女漫画とか、テレビなど、様々なメディアによって、育てられてきた<ステレオタイプ>を見て取ることができるはずです。そして、そこにも、欲望の主体の形成=整形を見て取ることができるはずです。

 フロイトの精神分析理論では、このような現象を「ファンタスム(空想、幻想)」と呼んでいますが。人間の欲望をうみだすそのような図式にかけられているのは、欲望の主体をかたちづくることなのです。ここにさらに、権力という次元を加えて考える必要があります。

 <ステレオタイプ>とか、<クリシェ>ということばは、もともと印刷の版型からでた言葉なのですが、反復可能な記号がつくられ流通することで、主体が<整形>されていくことになるのです。マス・メディアとは、このような巨大な主体の形成=整形の社会装置といってもいいかもしれません。前節で、メディアは主体にとって身体感覚の皮膚であるという話しをしましたが、そのようなメディアが、人々の感性を変えたことを確認できる大規模な革命の例は、<写真>です。<写真>は、十九世紀の後半以降、<欲望>の生産、<身体>による<主体>の生産に非常に大きな役割を果たしました。<写真>が生み出す身体像を媒介に主体化が行われていることは、上にみた、ピンナップの例でも、結婚式の写真でも明らかです。あるいはまた、<写真>を媒介にして、<家族>という主体化の配置をめぐる意味のゲーム(物語)をつくることができますよ、という広告メッセージは、「フジカラー、写ルンです」のキャンペーンなどに端的にみられるとおりです。「家族写真」は、家族の身体像を介して<主体> −−家族的主体−− を確認する社会的儀礼となっています。このような問題については、ブuルデューの「中間芸術」という題名のついた「写真論」があります。有名な場所にいって写真をとるという行為は、すでに社会のトピックス(場所)のなかに、ときには<家族>とともに、収まることによって、<従属化=主体化>されることなのです。

 以上、性的主体、家族的主体、社会儀礼的主体が、写真などの<記号>によって生み出されるという、「記号に働きかける政治」=「記号支配(セミオクラシー)」の例でした。
 
(2)身体に働きかける政治(身体のテクノロジー)
 すべての文化は、どの時代にも、身体の記号化によって、成り立っています。そして、それは、仕草や身ぶりや表情だけでなく、身体の使い方、処し方、理想とされる身体像についての知、あるいは、身体感覚や趣味の分類体系にいたるまで、身体の活動のあらゆる部分にまで及んで、その意味付けの体系は成立しています。さらに、社会といっても、言語とか文化の違いだけでなく、社会階層や社会グループにともなって、身体の使い方の体系、意味付けの体系はことなっています。その場合、記号やイメージといったステレオタイプを流通させることで、誘惑戦略のなかに主体を誘い込もうという意味のせめぎ合いにおける<主体化>の戦略のほかに、身体そのものの在り方や位置を変えてしまおうという別の戦略も成立します。文化には、<言説(ディスクール)>の秩序と同時に、身体の<規律>の秩序が存在していて、その両方で、社会を構成していると語ったのは、フランスの思想家のミシェル・フーコー(1925-1984)でしたが、その後者の方が(もちろん、それは、言説の体制と切り離せない関係にあるのですが)、身体に働きかける政治、ミクロな<権力>と、それをめぐる<主体化=従属化>の問題の側面です。ここでは、簡単に、フーコーの理論が教える主体の政治学をみるとともに、すこし違った視点から、そのような問題にアプローチしている、社会学者のピエール・ブルデューの理論を例にとって考えることにします。

a)<規律(ディシプリン)>
 身体が<主体>の形成にとって最も本質的な問題だということは、そこにおいてどのような<視る>/<視られる>あるいは<言う>/<言われる>位置に身体をおくかによって、<主体>の在り方が異なってくるということにもなります。これは、単に、コンテクストとか状況とか立場とかの問題ではなく、より深く<主体>-<身体>の密接な結びつきに関わる問題です。そして、社会は、じっさいに、そのような無数の複雑に重層化した身体の結びつきと配置によって成り立っています。例えば、現代日本の企業を例にとれば、それは、重層化し体系化された身体の集団的配置による<主体化=従属化>として描き出すこともできるのです。(ex. 制服とか、ラジオ体操とか、朝礼とか)。

 そして、そのような<主体化=従属化>のためには政治は身体に直接働きかけることになります。様々な因習的共同体とか、不均質な社会グループによって<主体化=従属化>を受けた身体を、「矯正」したり「訓練」したり「教育」したりするのは、身体を馴致することによって「健全な主体」をつくり出すためであるのです。近代は、そのような“良き”身体をつくりだす知と制度とが発達した時代でしたが、それは、国民国家のなかに身体を均質化して統合し、国民の<主体=臣民>を形成する制度でもありました。「教育」により正しく「視たり」「言ったり」することができる<主体>を形成することと、身体を<規律>によって統御し正しく身体を使用することができるようになることとは、表裏一体の関係にあるのです。このような身体の知は、とくに、近代の軍隊組織(国民皆兵・国民軍の創設)や、近代監獄の組織に、発生をみることができるものです。そして、その身体の知は、その後、学校教育や社会組織にも伝播していきました。体育とか、運動会などは、そのような身体を均質化し馴致する教育活動の代表的な例ですし、学校における規律(近年問題になっている「校則」など)も、おなじように身体に働きかける<主体化=従属化>の実践であるのです。あるいはまた、社会衛生や健康についての言説なども、このような身体の統御の実践と、平行関係にあるものなのです。消費社会における「スポーツ」の流行や、「健康」の流行は、このような「身体に働きかける政治」と前節の「記号に働きかける政治」との両者が結び合う線上に位置するものなのです。

 フーリエなどのユートピアから、近代の軍隊、監獄、学校、病院などの組織、工場、企業、さらには、20世紀になって、逆ユートピアとして出現した全体主義体制下の収容所にいたるまで、近代の政治は、身体のテクノロジーにもとづく<主体化=従属化>の巨大な実験を繰り返してきたといえます。

 このような問題の理論化をおこなったのは、フランスの思想家ミシェル・フーコーです。かれは、『監視と処罰』という著作のなかで、近代監獄を成立させたミクロな権力の力学を描き出し、身体を馴致する<規律>にもとづく社会の出現を跡づけて見せましたが、そのなかで、有名なベンサムの「一望監視装置(パノプチコン)」の例を取り上げています。

 「パノプチコン」は、ベンサムが考案した監視施設で、中央の監視塔を中心に、その周囲を取り巻いて、犯罪者や狂人を収容する建物が円環状に建てられている。その収容棟の各々には仕切が施されて収監者はお互いに隔離されている。中央の監視塔に対して内側の面と外側の面は光が透過する建築になっていて、外側から光がつねに差し込んでくる。監視塔の内側は、収監者からは見えないように設計されている建築の計画です。この装置によって、収監者の身体は、隔離され、個別化され、監視者から一方的に視られる位置に置かれている。この権力の配置によって、収監者は、自ら社会的視線を内面化して、自らの身体を<主体化=従属化>する、というわけです。建築という記号装置には、つねに、このように、身体にはたらきかけることによって主体化を実行するという働きがあります。フーコーの「パノプチコン」の権力論は、身体に働きかける政治が、どのような記号装置によってそれを実践するか、という問題を提起しているのです。

Panopticon
パノプチコン


b)<ハビトゥス>
 私たちの身体を記号化している文化は、極めて多様で、根深いものであり、エスニシティ、様々な社会グループ、おなじ集団でも構成員の出身地方、出身階層、家族、教育などによって異なっています。たとえば、身体の使い方、仕草、表情、理想とする身体像、あるいは、発音の仕方などの全てにわたって、身体は弁別的な記号のシステムによって構造化をうけていて、それが、個人にとって世界の意味付けの体系をつくりだしています。ひとりの人間の文化とは、精確には、そのように、社会的にどのようなグループ(家族、階層、エスニシティー、宗教など)にうまれ、そのグループおよび個人がどのような社会的軌跡を歴史的に経験してきたかによって身につけられた<世界の意味付けの体系>なのです。と同時に、社会的行為者としての個人は、そのように歴史的に身につけられた体系を元手に、世界の意味を生み出す行動の軌跡を描いていきます。それぞれの個人が身につけている象徴的能力、一方では、弁別的な記号の体系を認知すると同時に、他方では、それにもとづいて意味を生み出していく主体の能力のことを、フランスの社会学者のピエール・ブルデューは、<ハビトゥス(habitus)>と呼んでいます。社会はさまざまな象徴活動の交叉する場なのですが、大量に記号が流通するその社会の場において、個人がどのような記号をとおして自己の世界の意味を実現していくのかは、多くはその個人の身につけている象徴化の体系に負っています。「好み」とか「趣味」といった文化行動に端的にそのような問題はあらわれているとブルデューは考えています。料理の好み、どんな音楽とか絵画が好きか、どんなスポーツが好きか、どんな本が好きかなどは、社会階層によって分布がことなることを社会学的調査は教えますが、それは、社会グループによって身につけた<ハビトゥス>がことなるからだというのです。身体が社会的歴史的に決定づけられ記号化のシステムによって構造化されることで生み出される<ハビトゥス>のことを、ブルデューは「身体化された歴史」であるとのべていますが、私たちの<主体>をめぐる問題系との関連でいうと、記号化された社会環境による身体の<主体化=従属化>と、それによりうみだされる意味生成の社会的な<主体>が、ここでは理論化をうけているとまとめられるでしょう。

 ブルデューによると、社会とは、さまざまなハビトゥスをもった社会行為者たちが自己の意味実現をもとめて競合するいくつもの<場(champ, field)>から成り立っていて、それぞれの行為者は相互に自分がつくりだしていく意味付けの価値の序列をめぐってたえざる<象徴闘争>を繰り広げているといういうのです。<文学場>、<芸術場>、<政治場>、<ファッション場>など、それぞれの場において、新しい支配的価値の創出をめぐって象徴支配のための「創造戦略」が交叉しせめぎあっているというわけです。

 以上の、ブルデューの理論は、わたしたちの、1)記号に働きかける政治、2)身体に働きかける政治のふたつのベクトルの交点において、<社会>の場の成立をかんがえることをゆるすものです。「身体に働きかける政治」の側面としては、フーコーにおいてみたような、<学校>のような、身体にはたらきかけることにより「身体化された歴史」(=<ハビトゥス>)をつくる社会装置の機能を説明するものでもあります。学校とは、社会の<再生装置>であるといのは、そのような意味においてです。他方、「記号に働きかける政治」の側面としては、どのような記号やイメージを選択して自己の意味を実現していくか、とのような弁別的な身体的記号を選択させる<差異化(ディスタンクション)>による主体化のプロセスが社会的に決定づけられているか、という<象徴市場(le march_ symbolique)>の機能を説明するものです。そして、その双方が出会う地点で、「身体化された歴史」としての<主体>の記号活動が位置づくというわけです。


 以上からも、<記号>・<身体>・<主体>・<社会>をめぐる問題系の円環を確認できるでしょう。1)「記号支配」の経路をたどれば、<記号>→<身体>→<主体>→<社会> という道筋、2)「身体の政治」の経路をたどれば、<社会>→<身体>→<主体>→<記号>(<言説>)という道筋の連関となり、双方ともに、二本のメビウスの帯を交叉させ縫合してつくりだされる「クラインの壷」のような内も外もない連続した連関の構造体として理論化されるというわけです。

 私たちは、様々な主体化のイメージの放射を日常的に浴びている。と同時に、様々な場所と組織において規律社会における主体化をうけている。さらにまた、私たちの身体自体が社会的な記号化をとどめ、それに規定されて主体化をおこなっている。以上から、見えてくるのは、<記号>と<身体>をめぐる、そのような全体的な問題系なのです。

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東京大学 大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻
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