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「公共性」をめぐって

H. アーレント『人間の条件』、J. ハーバーマス『公共性の構造転換』、石川啄木『時代閉塞の現状』


1. 公共性とはなにか
 いま日本の政治状況のなかで、「公共性」は最も重要なイデオロギー的な争点になりつつある。「公共性とは何か」を正確に議論していくことは、「市民」と「社会」、「国民」と「国家」、「経済」と「市場」、「人間の権」と「民主主義」、「政治」と「自治」、そして、「メディア」と「世論」など、私たちの生活の基本的な価値の枠組みを、しっかりとした前提にもとづいて理性的に考えていくことにつながります。

(注:「権利」とは書かずに、私は、福沢諭吉にならって、英語の Rights や フランス語のdroitsのより正確な訳語として「権」と書くことを提唱しています。「Rights」は決して「力」の「益(Interests)」のことではなく、「政治社会において、当然そうあってしかるべき能の(ことわり)」だからです)

そして、それは、とくに今とても大切なことです。じじつ、私たちの今日の社会ほど、「公共的なもの」がねじ曲げられてしまっている社会はめずらしいのではないでしょうか。官僚機構にせよ警察にせよ「権力」の堕落と腐敗が露呈される、「的資金」が金融機関にやみくもに注入される、無意味な「公共事業」に歯止めがかからず、「明」を称する宗教政党が不明朗な政治取り引きによって連立政権をつくる。「公的なもの」が、こんなに不透明な実態をさす言葉であったためしはおそらくないのです。しかし、それだけではない。私たちの社会の諸制度が機能不全に陥るのとほとんど軌を一にしたかのように、保守的論壇においては、「公」の復権だとか、「公共心」の回復が叫ばれ、「シヴィック(=公民)・ナショナリズム」が唱えられたりしている。問題なのは、しかし、「公」の中身、「公共性」の概念内容なのです。というのも、そういう場合、「公」という言葉は、「国」だとか「国家」だとかと、故意に混同されて、「私的領域」を抑圧し、「国家」や「公的権力」の権威を回復するために、使われている。「公」とは「おおやけ(=大きな家)」であり「国」のことだとか、「私」の利益ばかり追求することによって日本がダメになったのであり、それは「権利」(ここにおいて「権利」は、本来の「権理」ではなく、私の「利権」と理解されています)ばかり主張することを教えた「戦後民主主義」や「戦後の教育」のせいだ、だから、「戦後」を精算して新しい「国のかたち」をつくろう、といった、もう何十年も前からくり返されている古くさいナショナリズムの常套句が、またしても新しい衣装をまとってまことしやかに持ち出されているのです。このことは、例えば、小沢一郎の憲法改正試案において、「基本的人権」が「公共の福祉および公共の秩序」に従属すると述べられていることなどに端的にみてとることができます。

 まずここでは「公共性」の定義を与えることからはじめましょう。「公共性」(それは、もともと英語でいう「パブリックネスpublicness」の訳語です)という概念の核になっている意味は、「すべての人々に開かれて議論されること、すべての市民によってオープンに議論され決められるべきこと」です。だから、それは、「基本的人権」(「人間が本来そなえているはずの当然の権理」)が前提とされてはじめて構成される事態であって、決して、基本的な「人間の権理」は「公共性」に従属させられたりしないのです。ところが、日本の言説空間では、情報を公開し、全ての人々の議論に委ねられているという本来の意味での「公共性」は、国家に代表される「公式的なもの」(この場合の「公」は、「オフィシャル」という意味にすぎません)や、官僚制に代表される「官的なもの」と故意に混同され、歪められ、「民主主義」を抑圧する言葉にすり替えられようとしているのです。だから、そのような「時代閉塞の現状」(これは後述する石川啄木の言葉です)に抵抗して、私たちの社会の未来を考え始めるひとたちのために、次のような著作を読むことを私は薦めたいと思います。


2. 政治は「人間の条件」
H. アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫)  →Amazon.co.jp
 いまの日本の現実の政治の姿がどんなにくだらないものと見えたとしても、皆さんは「政治」を見捨ててしまってはいけません。なぜなら、皆さんが「政治」だと思っているものは本当の意味での「政治」ではなく、本来の意味での政治とは、私たちが自分たちの生活をいきいきと生きることと本質的に結びついた、私たちの生のひとつの本質的な次元だからです。スポーツをして身体を健康に保ったりプライベートを楽しんだり、仕事に打ち込んだりするだけでは、私たちはほんとうには生き生きとした自由な生を生きることはできません。アリストテレスは人間を「政治(ポリス)的動物」だといいましたが、古代ギリシアの都市国家(ポリス)では、「政治(ポリティコス)」とは、自由な市民たちが「活動」と「言論」によって自分たち自身の<共通のことがら>を決めていくことでした。そのような「公的な領域」に参加することこそが、自由な人間としての活動的な生の在り方だとされたのです。「政治」とは何も選挙に出たり議員になることでなく、私たち自身が自由な活動と言論によって自分たちの未来を決めていく<市民としての>生の在り方であり、私たちがいきいきと生を生きるための「人間の条件」なのだというのが、古代ギリシャにおける「政治の発見」だったのです。その「政治」とともに、「公的(パブリック)なもの」も生み出されました。この「政治の発明」については、「全体主義」や「国民国家」について最も根本的な考察をおこなった二十世紀最大の政治哲学者ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読むことをすすめたいと思います。


3. 近代における公共性
J. ハーバーマス『公共性の構造転換』(未来社)  →Amazon.co.jp
 さて、人間の活動の次元としての「公共的なもの」が私たちの時代と社会においてはどのように成立することになったか、そして、どのように困難で複雑な問題をはらんでいるのか、を考えるためには、近代の政治において「公的なもの」がどのように再発明されたかを思い起こす必要があります。私たちの世界の「政治」や「公共性」は、ギリシャの都市国家から直結しているわけではない。近代政治の発明の過程において、どのように「公共性の圏域」(=「公共圏」)がつくりだされてきたのかをもう一度とらえ返す必要があるのです。それは、「近代」という世界が成立したときに、「社会」、「政府」、「経済」、「国家」、「国民」などが、どのような相互配置のなかに生み出され、「公的(パブリック)なもの」と「私的(プライベート)なもの」との分割がおこなわれたのか、「公共の生」に参加することがどのような理想を体現し、活動としての「政治」を形づくってきたのか、を考えることでもあります。

  一言でいえば、近代的な「公共性」は、「市民社会」の理想をもとに「議論する空間」をひらくことから始まりました。それが、近代における「政治」の始まり、近代的「民主主義」の始まりです。福沢諭吉は、十九世紀半ばの日本語には存在しなかった「社会(Society)」を、当初「人間交際」と訳しましたが、それこそが自由な市民が自分たちの活動と言論により自律した社会をつくるという「市民社会」の理想でした。ひとびとが自由に公開された議論をたたかわす「公論」の圏域こそ、「政治」を決定づける「公共性の圏域」であったのです。もちろん、「市民社会」も、「公共性」も、そして「民主主義」も、理想としての価値、近代にとって基本的な規範的な価値の発明であり、歴史的・経済的・社会的・文化的諸条件があって初めて成立したものです。ギリシャの奴隷経済がポリスの政治をささえたように、近代の市民社会もとりあえずは西欧近代のブルジョワ社会の成立を前提としていました。「国家」と分離したものとしての近代的「社会」の歴史的・社会的な発生過程から、どのように「政治的公共圏」がうみだされたのか。「公共性」をかたちづくるものとしての「公衆」や「公論」が、どのような条件のもとに成立したのか。そうした、近代世界における「公共性」の問題を考えるために手がかりになる最も基本的な本は、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』です。とくに、私たちの政治の単位はギリシャの都市国家とはちがって、国家的さらには超国家的規模に拡がる経済市場、巨大な行政官僚機構に支配され、相互に見知らぬ群衆がマス・メディアを通して交通している巨大な「メディア公共圏」ですから、現代世界における複雑に絡み合った人間の経済や行政やコミュニケーションの諸活動領域が、「私的生活圏」と「公的権力の領域」をどのように入り組ませ、人々を「議論する公衆」から「文化の消費者としての受け手」に変え、「政府」に代表される行政官僚機構を市民社会のコントロールが効かない目に見えない「権力執行機関」に変えてしまったか、という問いの原理的な縦糸をこの本はよく教えてくれます。


4. <国家>に抗して考える
石川啄木『時代閉塞の現状』(岩波文庫) →Amazon.co.jp
 さて、何よりも気になるのは、いまの日本の私たちの「市民社会」の「公共空間」です。私の考えでは、私たちの「市民社会」を活性化させ、「公共性」を私たちの手に取り戻し、私たちの「いきいきとした生の活動の次元」としての「政治」を回復するためにもっとも必要なことは、この国では<国家>に抗して考える、ということから始めることだと思います。福沢は、私たちの国には「国家あって国民いまだなし」といいましたが、歴史的な理由があって、この国では「国家」から始まって近代の「政治」が成立しました。しかし、「市民社会」の自立、開かれたもの、議論するものとしての「公共性」、つまりは私たちの「民主主義」の新たな構築なしには、今のこの国の<公的なもの>の危機を乗り越えることはできないのです。明治の近代化の閉塞状況が顕わになり、「大逆事件」に象徴されるように「国家」が「市民社会」を殺すことが歴史的に明らかになったころ、石川啄木や永井荷風といった文学者は、そのような「問い」をつかんでいました。それは、啄木の言葉でいえば、「強権」に抗って考える(「強権に確執をかもす」)ということです。日本の近代国民国家が立ち上がった頃の「民権」の原点にもどって、私たちは「政治」を考え直すことから始めなければならないのです。



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