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「象徴的貧困」の時代

イラク「日本人人質事件」報道を問う
初出:『世界』(岩波書店)、2004年7月号

 4月にイラクで発生した「日本人人質事件」をめぐる報道は、私たちの国が陥っている政治的理性の危機、そしてなによりもマス・メディア社会の頽廃を白日のもとに露わにした。もはやこの国では崩落した公共空間のあとを覆いつつあるのはメディアの歪んだ情動空間とでも呼ぶべきものなのではないか、しかも驚くべき事に、少なからぬ人々がこの情緒的動員に引き込まれてナショナルな気分のなかに自閉し、解放され帰還したNGOボランティア、ジャーナリストをまるで「罪人のごとく」冷たく迎えるという、およそ目を覆いたくなる情況を呈したのだった。

 すでに多くの外国メディアがこの国内の反応そのものにいぶかしさの眼差しを向けたことが示すように、私たちの社会にとって深刻な事態がそこには表れている見るべきである。

 私たちのメディア社会全体を覆い始めた凍えるような「貧しさ」を、私はここで「象徴的貧困」という用語を使って考えてみたい。「象徴的貧困」(経済的貧困とはちがって)とは、ひとびとの生活圏がメディアによって全面的に包囲されることによっておこる想像力の貧困、イメージの過剰の社会が生み出すイメージの貧困の問題である。弱者に対する思いやり、危難の渦中にあるひとびとに対する同情や連帯、マイノリティや意見をことにするひとびとに対する寛容といった、人間らしさを支えている想像力の働きがメディア社会によってなし崩しにされる。それはひとびとが自分自身の深部において襲われる自己イメージの「寄る辺なさ」の感覚と結びついているのではないか。

 私たちの社会はそのような「象徴貧困」の様相を呈してきていないだろうか。「イラク日本人人質事件」に関して、「自己責任」を喧伝したメディアの鏡に映し出されているのは、他者の想像への無関心と、理想主義的なものへの憎悪、そして無防備な状態に置かれた個人たちのイメージに対する攻撃性が入り交じった、じつに歪んだ欲望の光景である。何がこのようなメディア社会の悲惨を引き起こしているのかを「事件」の経緯を辿りつつ明らかにしたい。

世界的市民ネットワークによる救出
 まず人質解放にいたる事実経緯を確認しておこう。今回4月8日にイラクで拉致された三人の日本人に関して、正確な情報を定期的に発信し続けた情報ネットワークは確実に存在した。しかも、その情報はある程度のチャンネルさえ持っていればだれもがアクセスし入手することができたものである。

 反グローバリズムのオルターナティヴ組織「ATTACジャパン」が4月10日に転送発信した、「グローバル・ウオッチ」のコリン小林氏が発信による、イラク民主化運動のリーダー、リカービ氏を仲介者に拉致グループと接触がとれた様子を伝えるメールはおそらく幾つかの団体メーリングリストを転送されて、同日の午後には私のところにも送られてきた。それ以後、「グローバル・ウオッチ」発信の情報は様々なルートから転送されてくるようになったが、いずれも拉致グループの声明が「アル・ジャジーラ」に送りつけられて日本のメディアが反応するずっと以前の段階からじつに的確な内容を伝える情報であり、拉致グループとの間接的だか確実なチャンネルが打ち立てられていることを示すものだった(※1)。

(※1)正確な事実経緯の報告については、コリン・コバヤシ氏による報告「世界市民は何をなしえたか」(『世界』2004年6月号);および、最近緊急出版されたばかりのグローバル・ウオッチ編集『日本政府よ!嘘をつくな!』、作品社、2004年5月刊をぜひ参照されたい。

 日本人人質たちを救い出したのは、こうした「対抗的な」世界市民ネットワークによる情報の流れである。また、人質をとった抵抗運動の側に、拉致された日本人のNGOボランティアとジャーナリストの活動をつたえ、政府の方針に異をとなえ軍隊の派遣に反対する勢力が存在することをいち早く知らせ、人質たちを解放するよう働きかける運動を担ったのは、市民平和団体のボランティアやフリージャーナリストたちでもある。どのような人たちを人質にとってしまったのか、日本ではどのような動きになっているか、日本の現状はほぼリアルタイムで相手側に伝わっていただろうと考えてほぼまちがいない。世界的な市民ネットワークが、インターネットを介して人質の解放を「交渉」するという前代未聞の経験がインターネット上で繰りひろげられたのである。私自身はたんなる一末端ネットユーザとしてではあるが、インターネットをとおして拡がった世界的な情報の共有を経験した人の数は、世界中で極めて多かったのではないか。

 現在の世界の情報の流れの大きな潮流をつくりだしているのは、こうした「もうひとつの世界」の動きである。さらにまたマス・メディアにおいても、アル・ジャジーラの登場が示すように、世界規模のメディアすなわち欧米メディアという図式はもはや成立しなくなっている。周知のように非西欧的マス・メディアが一方の主導権を握ったかたちで、アフガン戦争以後の「戦争報道」は行われてきている。どのようなネットワークを通してときには戦争と平和に関わる情報を流通させ、どのような情報をえて世界の出来事の「意味の主体」となりうるのかが、ひとりひとりの市民に世界規模で刻々と問われているのである。

 それがおそらく昨年の春の史上最大規模の世界同時的な反戦運動のうねりの意味である。
 そのような動きの「現実性」を、なぜいまナショナルなメディアは十分に客観的に評価できないのだろうか。何千万ものひとびとが同時に史上最大の反戦デモをおこなうという、その条件と拡がりをどうして思考しえないのだろうか。

ナショナルなメディアの失効
 じっさい今回のイラク人質事件の報道で失効が確認されたのは、国内の公的なマス・メディアである。世界的規模での情報の流れは、日本のマスメディアでの報道にはついにまとまったかたちで反映されることがなかった。

 日露戦争後100年の今年、この国のマス・メディアが「戦争報道」によって巨大メディアとして発達してきたのだということを私たちは思い出しておくべだろう。政府を窓口にしてぶら下がることにより「情報」をとるという、もともと戦争報道を出発点に発達した「記者クラブ」方式の官製情報の流れの仕組みによる情報伝達のもつ無意味さと有害さが今回ほど露呈したことはなかったように思えるからだ。

 ナショナルなメディアの回路では、世界についての公式の情報は公的情報(「政治」や「外交」)は政府を頂点にした情報の上から下への流れによってもたらされるものであり、私的消息(「社会」面)は情緒的および道徳的な家族的・地縁的共同体のレベルに設定された物語として語られるという大きくいえば二分法によって、メディアの語りの体制は統御されている。

 私たちの国の巨大メディアはいまでも徹底的にナショナルな閉じた情報回路として成立してしまっているのだ。異常なほどに「日本人の」というタイトルがつくテレビ番組の数を考えてみるといい。情報が国境を超えて光速度で流通していても、この国の公的メディアは、「日本人」の「日本人」による「日本人」のためだけのメディアであってそれ以上であろうとは決してしない。日本では日本人が乗っていない航空機事故はなかったことになるというのはしばしば語られる笑えぬ冗談である。

 今回の人質事件のように「日本人」を巻き込んだ事件がひとたび起こると、それが「日本人」ゆえに大変な騒ぎになる。大規模な報道体制が敷かれ、大量に冗長な情報が流されつづける。そして情報の「冗長度」は、ひたすらひとびとの「同情」と「憐憫」をかき立て情緒的でナショナルな共同性を確認するためにこそある。

 海外での人質事件のような事件の場合、報道の定型的な語りの文法は、政府や公式当局の公的情報を報道し、家族の気持ちを伝え、憐憫と同情をひたすらコミュニケーションのなかで共有させることに収斂される。このときメディアは「国家」の見解(公式情報)と「家族」の心情を、視聴者である「国民」に媒介する 、<国家>と<家族>を基本的なモーメントとした「伝達作用の序階システム」なのである。そのような「伝達作用の序階システム」においては、家族に求められるのは「日常的の生活」レヴェルでの「心情吐露」の声であって、「政治的な」主張ではない。人質家族や犠牲者は、ひたすら政府を「頼って」お願いすること、「心配する」地縁的=国民的共同体をおもんばかってひたすら「ご心配」や「ご迷惑」を謝ることを求められるのである。

 事件報道が、ワイドショー化すればするほど、こうした<疑似家族的共同体>のコミュニケーションが肥大し、情緒的な同情の声や教訓めいた道徳化の言説が飛び交うことになる。被害者やその家族は同情されるべき対象であっても、「政治的主張」をすべきでない、「心配」や「迷惑」をかけたことをわび「お上」に従い、ひたすら庇護を頼りにすべきであるという主張である。共同体の暴力がここにある。

 ところが今回の「イラク日本人人質事件」報道では、この事件報道の「伝達作用の序階システム」のうち、どの<声のパート>もうまく機能しなかった。なによりも公式の情報源であるべき政府公式筋が、もたらすべき確たる情報を持っていたとはいえないようであったし、人質たちもひたすら受動的被害者の顔立ちからははずれていた。そして、家族が身内の迷惑をひたすら謝罪し政府の庇護をもとめる被害者家族の役回りを演じることが(少なくともバッシングをうけるまでは)なかった。公的メディアの「序階システム」に混乱が生じたのである (※2)。

(※2)5人の人質解放された直後の「読売新聞」の4月18日付の社説は、「家族が政治的発言をした」ことが問題であると述べている。また国際政治学者の中西寛は「家族を含めた支援者が(・・・)拘束の報を伝えられた直後から、犯人よりも政府を相手にする形で(・・・)自衛隊撤退を選択肢に含めるべきだとメディアで訴えたこと」が「今回の事件が大きな論争となった」原因である、と書いている(「朝日新聞」2004年4月26日東京版夕刊)。

 今回の論調のなかには、NGOはひとたび危機におちいると「政府を頼るのか」という主張が目立ったが、問題なのは、「頼る」という語彙の使用こそが示しているのは、このような報道システムを貫いているイデオロギー的な価値体系である。そこで立ち上げられることになったのが、「自己責任」論である。

「自己責任」の言説配置
 今回の出来事をめぐって、さまざまな国内メディアが政府高官や与党政治家たちの声を引用しつつ、また「読売」や「産経」といった保守系紙の社説が相互に論調を呼応させつつ、急速に立ち上げた「自己責任」論とは、イラクの戦争情況から、当該のひとびとの「情況判断」と「結果」のみを切り離して焦点を当て、個人に「責任」を負わせるために作りだされた言説のイデオロギー操作のシフトである。じっさい多くの国のさまざまなカテゴリの人々が同じ時期にイラクで人質にとられたり、拉致されていることをみれば、日本人3名ないし5名の孤立したケースについて「自己責任」を決疑することに意味があるわけではない。問題の本質は、かれら市民個人の「自己責任」を論ずるという、メディアによるトピック設定が、「世論操作」のためにどのような言説のイデオロギー的配置を用意したかということだ。

 じっさい「自己責任」という語は「イデオロギー語」として、今回おそろしく有効に機能した。それは、自衛隊派遣という事件発生のもともとの起因文脈を不問に付すことに貢献した。人道的な価値を、「個人の落ち度」をめぐる物語に書き換えることに成功した。「人道主義的NGOの活動を、活動」全体をうさんくさいものとすることに役だった。そして「個人」の落ち度と限界にフォーカスを当てることで、対照的に「自衛隊こそが人道復興支援」をおこないうるという議論を補強することに役立った。政府の「責任ある」態度を演出することにも役だった。そして何よりも、事件の直接の隣接的事実文脈である人質事件の舞台となったファルージャで行われていた米軍による1000人にも及ぶといわれる住民の虐殺の出来事をみえざる「地」に位置に置くことに成功したのである。また家族からの要求を退け、もちろん世論が政府の方を向くことを阻止したのである。「自己責任」というトピックの設定が、こうしたイデオロギー的配置のなかにメディア上で飛び交う言説を呼び込む仕掛けを用意したのである。

 じっさい、このイデオロギー語に触発されて、事件についての断片的な情報とイメージをもとにした無神経な断定の数々と、安易なメタファーにささえられたたとえ語が、そこからは延々と紡ぎ出された。悪天候に無謀なレジャーにでかけるサーファーの物語であったり、準備のない登山の遭難の物語であったり、国内でもできることをのこのこ海外に出かけていく無知で自分勝手な若者の物語であったり、いっぱしの評論家気取りの論者やコメンテーターが、さも自分たちこそが「教訓をたれる」資格があるかのごとく言いたい放題をしゃべったり書き散らしたりしたのである。

 このような事態は、拉致グループから送りつけられた三人の人質のビデオ映像が繰り返しメディアを通して流されるなかで進行したこととも無関係ではないだろう。

 テレビに映し出された「ひとつのイメージ」を前にしたとき視聴者と事件現場との空間的地理的距離は廃絶される。論理的距離・倫理的距離もまた言説において躊躇なく飛び越えられてしまう。「ひとつのイメージ」と「現実」との距離を論理的に問うことができなくなってしまうのである。「TV的焦点化=盲目化」(一部を見せることで文脈が見えなくなる)と私はこれを呼んでいるが、この「焦点化=盲目化」のために、「自己責任」という語がプロモートされ「人質の映像」にレッテル貼りされたとき、保守イデオロギーの言説配置は一挙に効果的な疑似説明の言説として立ち上がったのである。

 テレビはまたインタビュー映像の部分的シーケンスのみを取り出してクローズアップして流すから、解放後の人質のことばも先入見にそって「編集」されてしまう。「イラクに残りたい」ということば、「映像にとられたくない」といったインタビューの断片が強調してとりだされひとびとの記憶にとどめられてしまう。テレビの時代には、人質や事件の被害者といえども、解放されるやメディアのインタビューに応じる前にもすぐに、コミュニケーション担当のコンサルタントをすぐに雇って自衛でもしないかぎり、対応できないというのは決して誇張とはいえないのである。

 こうした発明された「自己責任」論という「新自由主義」の言語ゲームが、自己を救うことができないような窮地に陥っている弱者の姿を前に「自己責任」という認知図式を与えてすますという事態が、これからしばらく幅を利かすことだろう。「自由には責任がともなう」などという年寄りの教訓話染みたとぼけたモラル(※3)が、社会のあちこちで、いまさらの真実のように繰りひろげられ、ひとびとを「思考停止」に陥れて、社会的弱者を絶望のなかに置き去りにしていく光景を目の当たりにすることになるかもしれない。

(※3)山形浩生「読み・解く:世相」、「朝日新聞」2004年5月15日「Be on Sunday」, b2を参照。


 これこそ、私のいう「象徴的貧困」を促進する言説装置の社会的配備なのである。

 「新自由主義」の自己責任論者たちは、とうぜん計算高い。ミヒャエル・エンデの寓話『モモ』の「灰色の男たち」のように、あなたはこれだけの迷惑をかけたのだから、金額にするとこれだけの額になると、犠牲者に対して計算書きを突きつけないと気が済まない。そのようにして「象徴的貧困」は、社会全体に「さもしさ」を瀰漫させていくのである。

「メディア行為」として遂行される戦争
 現在の戦争はなによりもメディアの戦争である。イメージについてどのような態度をとるのかが、私たちが戦争についてとる態度に直結する時代なのである。そして、「象徴的貧困」による想像力の枯渇のもとには、戦争とテロリズムに表れた「イメージの徹底的な荒廃状況」がある。

 1991年の「湾岸戦争」が、CNNに代表されるグローバル・メディアの戦争であり、現実には「起こらなかった」ヴァーチャル戦争として、イメージによるユニラテラルな破壊力の制覇として記憶されたとすれば、その十年後の「9.11」は、その「イメージの破壊力」を「テロリストたち」がアメリカ本土で繰りひろげて見せた「イメージの報復戦」であった。「戦争」はいまやメディアのなかに完全に転位しているのである。

 アパッチ・ヘリコプターは、赤外線カメラに映し出された「モニター画面」は、ヴァーチャル・ファイターのビデオゲームのように「敵」を殲滅し、負傷した敵にとどめの銃撃を加えて殺す場面を記録する。

 現在では「戦争」のすべてが「メディア映像」として記録されなければ「遂行された」ことにならず、戦闘の当事者さえもが自らの戦争「行為」をメディアのなかに確かめるほかなく、そのためにこそ殺戮の現実とはそのイメージと瞬時に等価であるかのごとくだ。「虐待ビデオ」の存在は、命令系統の末端にいたるまで、デジタルビデオという「メディア」を使用しながら「拷問」や「虐待」が文字通り「メディア行為」として遂行されていることを明かすものである。「現実」と「映像イメージ」との逆転という「倒錯」こそが、あられもない証拠写真を残すことになるのだ。

 これが「湾岸戦争」以後の「メディア化した世界における全面戦争」の姿である。「戦争」の「現実感(リアリティ)」は「メディアに映し出された映像」のなかに探し求められている。そして、この「倒錯」こそ、現実への「想像力」を殺すものだ。現実の殺戮が、イメージとして遂行されたことの残滓にすぎずイメージこそが遂行すべき戦闘行為であるとしたら、いったい誰が画面の向こう側にいる人びとの「死」と「破壊」の「現実」を想像するだろう。「戦果」とは「戦果のイメージ」と等価である。イメージのシニシズムは、じつは人間の想像力の殺害なのである。

 そして、ジョージ・ブッシュの帝国がとりつかれているのは「テロとの戦争」という「イメージ」の体系であり、「大量破壊兵器」にせよ、「テロとの闘い」にせよ、次々と「嘘」が明るみにでるのは、「イメージ作戦」だからである。じっさいの兵器というような「指向対象(リフェレント)」が存在するかどうかはどうでもいいのである。

 小泉純一郎が「テロに屈するな」という標語で反復しようとしているのはそのブッシュの「テロにたいする戦争」を模倣し追認しようというメディア・ポリティクスの身ぶりなのだ。

 「自衛隊の人道復興支援」の物語を見てみよう。限りなくイメージ戦略に似た「国内向け/アメリカ向け」のメディア・パフォーマンスとして、自衛隊派遣は行われている。その「イメージ」が、しかし「現実」にはどのようなものとしてイラクのひとびとの目に映っているか、今回の人質事件は、イラクのひとびとの日本人に対する知覚を白日のもとに露わにして見せたのである。

カラシニコフとDVカメラ
 今回の「人質事件」もこの「全面化したメディア戦争」の一コマである。 そして私たち自身もこの「戦争」に「テレビを見る」ことによって、「それについておしゃべりをする」ことによって「参加」しているのだ。

 このようなイメージのなかに転位された全面戦争においては、イメージの世界規模の暴力に晒されたレジスタンスの担い手さえもが、「カラシニコフ」と同時に「デジタル・ハンディカメラ」を携行することから、自らの抵抗の闘いを始めなければならない。「映像」にとられなければ「事実」は「存在しない」からだ。だれもがそのように全面化したイメージ戦争に引き込まれていく。

 私たちが戦争にかんするメディア報道でこれからますますつき合っていくことになるのは、以上のような戦争そのもののメディア化であり、またそのメディアとしての戦争を素材にした、さまざまな情報操作である。もともと「イメージ」となった戦争を、メディアが「伝え」、「コメント」する。このように全面化したメディア戦争の世界にあって、私たちはどのようにこの世界を考えていったらいいのだろうか。

「現実」の方へ「エグゾダス」せよ!
 最後に、私は、今回の人質になった人々、そして、人質にとられていたかもしれないフリージャーナリストやNGO活動家たちの活動に対して留保なしの全面的な支持と連帯を記しておきたい。なぜなら、イメージのシニシズムを破綻させ、イメージの力を回復させること、メディアによる「現実の消去」に立ち向かい、イメージの向こう側にある人々の「現実」への想像力を回復する担い手たちは、これらの人々をおいて他にないからである。

 なぜフリージャーナリストたちは命をかけて向かうのか?

 全面的にメディア化した戦争の「イメージのシニシズム」に抗して、「イメージのリアリズム」を回復するためである。「国家」の「茶番劇(スペクタクル)政治」のチャンネルを消し、「自閉したナショナリズムのメディア空間」から遠く離れて、この砂漠としての「現実」からこそ「言葉」を起動させよう。イメージを記録しよう ひとびとの生への想像力を取りもどそう。いま私たちのメディア・コミュニケーションに必要なのは捉えがたい、ざらざらとした「現実」の手触りを伝える「ドキュメンタリー」であって、「バラエティ」のおしゃべりではない。イメージの向こう側の非情な現実について、真の想像力を喚起するような「報道の言葉」が、私たちにはいま必要なのだ。

 「象徴的貧困」の時代にあって、世界の「現実」と向き合いうる「イメージ」とは何なのか。世界の「現実」を語りうる言葉とは何か。イメージのシニシズムが支配するメディア化した世界の閉塞から逃れて、私たちは「現実」の方へと脱出(エグゾダス)すべき時なのである。


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