
象徴都市パリの<死の大軸線>
初出:『建築文化』、特集「20世紀の都市I、パリふたたび」、1999年1月号、pp.29-40
1. 巨人たちのめざめ
夏至の近づいた六月のパリ、もう午後八時をすぎようとするのに太陽はまだ高く、行き交うひとびとの表情はこころなしか上気している。晴れた空からは、プラタナスの街路樹の高い梢をとおして日が射しこみ、ときどきセーヌの河面から舞い上がる風が、乾いて肌理のあらくなった光の粉を、そよぐ葉むれや舗石のうえにふり注いでいるという感じなのだ。ここポン・ヌフのたもとからは遥かな遠景としてしかみえない、コンコルド橋の方角では、もうライトが灯されて、遠目にも広場を囲む建物のファサードがぼんやりと蜃気楼のようにうっすらと浮かび上がって、警備の車両の青い光が豆ランプのようにいくつもまばたきしている。たしかに、さきほど、メトロは群衆規制のせいでコンコルド駅には停車せずに通過してしまった。地下鉄1号線でパレ・ロワイヤルまで乗って、ルーヴル河岸づたいに歩いてきたのだけれど、こちら右岸の厳戒とは対照的な左岸の日常的な人々の動きが印象的だった。川沿いの自動車道を車はいつものように流れている。向こう岸では人々はこちら側の祭り騒ぎには無関心に、初夏の夕暮れの散歩を楽しんでいる。
サマリテーヌ百貨店の角からは、青白の国旗をまとってそのうちの何人かはのタータンチェックのスカートをはいた赤ら顔の、スコットランドの男たちの一団が現れて、角笛とドラで鳴り物入りの騒ぎを始める。こちらで赤や黄色のウィンドブレーカーを着て見物をまつ子供と親たちの一行は、これが報道されたあの「ウーリガン」なのではないかと、しばらく沈黙し、ささやきあう。ここ数週間の電話による切符予約騒ぎでこれから始まろうとするイヴェントの規模を少しは学習しはじめたとはいえ、まだ慣れていない群衆たち。この夕べにどのような出来事が待ちうけているのかについての情報は少なく、皆お互いにときどき話かけて、座り込んだり、異人種のいろとりどり人々はラジオカセットで音楽を流したりして、だれも待ち時間をやり過ごすことに精をだしている。珍しく今夕はセーヌ川の上空を報道のヘリコプターが飛び交っている。その間にも、空気の光は次第に影を引くように明度を下げていくかのようだ。今夜は「クープ・デュ・モンド」の前夜祭で、やがて「巨人たちの行進」がおこなわれることになっているのだ。
あとでテレビの録画で知ったのだが(というのも、私自身はポンヌフのノートルダム寺院側の手前にいて、そのあとはコンコルド広場の方へ向かったのだから)、パリの四つの方角でこのころ巨人たちはそれぞれがめざめかけていた。
最初に<南>にあたる<シャン・ド・マルス>でめざめたのは、<ムーサ>だった。なかば空洞構造の化学樹脂でつくられた20メートルを超える紫色で黒びかりする肉体に、厚い唇、発達した顎、ギロッと見開いた眼、もりあがった尻、という明らかにアフリカ人種の特徴をもち、最初は膝を折り曲げ人形のように畳まれていた巨人は、全身を揺するようにして徐々にその巨体を伸ばして繰り広げていく。エッフェル塔の見おろす軍神マルスのフィールド<シャン・ド・マルス>から起きあがると、アフリカの平原を表す緑の木や駝鳥やカモシカをおもわせる動物たちを先導役に、セーヌ右岸をゆっくりと進んでいく。アンヴァリッドのナポレオンの墓の前を通って、アレクサンドル三世橋を通り過ぎ、国民議会のブルボン宮までいくと向きを変えて、コンコルド橋を渡ってコンコルド広場へ入ってくるというのがこの南の巨人が辿るべきコースだ。タムタムの音、ドラム、パーカッション、踊りに導かれて、時速1キロ数百メートルというひどくゆっくりと進んでくる。
私がいたポン・ヌフでは、全身明るい黄色の樹脂の文字どおり黄色人種のアジアの巨人<オー>が立ち上がるのを人々は待っている。「ヴェール・ギャラン(アンリ四世)」像の前で、二台の自動車を改造した足には、それぞれ操作技師が乗り組んでいて、はじめはスケート靴をはいてしゃがんだ子供のようにうずくまっていたが、眠りから醒めるように瞼をひらく、徐々にこれまたさなぎから生まれでる昆虫のようにゆっくりと振動をはじめ、次第にその肢体をひろげていく。立ち上がると身長は二十メートルをこえ、黄色の身体とコンピューター・ゲームからそのまま出てきたような刈り上げ頭に切れ込んだ瞼の顔立ち。いつからこの巨人たちのような「少女まんが」の瞳の描き方がヨーロッパでも行われるようになったのか、これはやはり「ドラゴン・ボール」などmangaの席巻以来のことであることは確かだ。<オー>は、西から射す光を肩のうえに浴びながら、またかげのつくる黄緑いろの文様を体にまといながら、ゆっくりとポンヌフの舗石の上ををこちらの方へ渡ってくる。クリストが包んだときにもこの橋の光の効果は十分に発揮されたのだけれど、ポン・ヌフは橋の両サイドに向かってついた傾斜のせいで、最も時間的な橋なのだ。それが、今夜のフィナーレの式典を主演するジュリエット・ビノッシュが演じた「ポン・ヌフの恋人たち」の物語性をつくった。<オー>は橋を渡りきると、一瞬プラタナス並木の緑の梢の向こう側に隠れたかに見えるが、こちら側の河岸通りに出てくるとその背丈は木々をはるかに超えている。サマリテーヌ百貨店の角をルーブル河岸のほうへ曲がるとき、色とりどりの幟のような三角旗を屋上に並べたベル・エポックの代表的建築よりも巨人の身の丈が高いことが分かる。昔映画館でだれもが見た、キングコングを使ったこの百貨店の有名な広告「サマリテーヌならなんでも見つかる」を思い出さないではいられない瞬間だ。YMOや坂本龍一のようなテクノ・ミュージックにのって巨人の前を緑と黄色のYing
Yangという奇妙な上下対称の人物たちが行進し、魚たちに扮したローラースケーターが黄色から光をはなちながら滑っていく。ルーヴル河岸をいき、つづいてルーヴル宮の東側に沿って、リヴォリ街にでて、チュイルリー公園にそってコンコルド広場へ向かう。蟻ののように橋を渡ってくる人々の群れ、街路樹の上を超えてオスマン時代の建物の両側の最上階のさらに上をいく巨人の頭。人々は階上の窓やヴェランダにでてそれを眺めている。カーニヴァルの人形とはちがってこちらはコンピューター制御の仕掛けになっているから、緩慢ながら顔も動くし瞼もとじる、手の動きや上体をかがめたりといった身体の動きも自在で、まるでコンピューター・ゲームから出てきた怪物そのものだ。ルーブルの東面では竜との戦いの演出があったり、ビュレンヌの円柱のパレ・ロワヤルでは、チェス将棋を前に謎を解いたり、チュイルリーでは忍者もどきとの決闘をみやったりと余興もまじえながら、しかし極めてゆっくりと進んでいく。
同じようにこの頃、<西>の凱旋門からは、アメリカ大陸を代表して、アメリンディアンの縮れ髪の赤い巨人<パブロ>が、無人のシャンゼリゼ通りの中央線上を炎やサボテンや食虫花や毛虫の踊りとパーカッションを従えて、西に傾く夕日を背に悠然と降りてくきたのだし、<北>にあたるガルニエのオペラ座からは、「もっともロマンチックで繊細な」と解説された、水色をした白色人種の巨人<ロメオ>が、ヨーロッパ大陸を代表して、水色の瞳だけの侯爵・侯爵夫人の人形たち、七人のジュリエットを従えて、冷たい感じの幻想的なコンピューターミュージックのメヌエット流れに乗って、ときにはジュリエットたちによるファッションショーをも繰り広げる行進のなかを、マドレーヌ寺院の方へと歩を進めてきていたのだった。
この夜、コンコルド広場をめざして、それぞれ身の丈20メートルを超え体重30トンもある、四人の巨人たちは、能役者のようにおそろしくゆっくりと進んできた。かれらの目覚めの場所として選ばれたのは、<南>が<シャン・ド・マルス>のエッフェル塔の下、<東>がシテ島に架かる最も古い橋<ポン・ヌフ>のアンリ四世の銅像の前、<北>が第二帝政を象徴するガルニエの<オペラ座>、そして<西>がナポレオン戦争以来フランス国民の象徴的核であるエトワールの<凱旋門>と、それぞれが極度に歴史的に多元決定された四つの場所であり、それぞれの大陸から出現した巨人は、それぞれが首都の東西南北の権力軸に対応するそれぞれの目覚めの場所と経てきた経路の<権能>を帯びつつ、コンコルド広場の四方から姿を現したのだった。四人の巨人たちはそれぞれパリという政治首都の歴史的・政治的記憶を<東><西><南><北>のそれぞれの軸にしたがって再活性化しつつゆっくりと歩んできたのだということが分かる。このパレードはもちろん<カーニヴァル>のある種の引用ではあるのだけれど、巨人たちはコンピューター・グラフィクスによって設計され、電子技術によって統御をうけて操縦され電子テクノ音楽の響きのなかを行進する、テクノロジー国の超近代の怪物たちであり、かれらが甦らせる記憶は、土着の神話的記憶ではなくて、フランスという国民国家の歴史的・文化的記憶であって、ワールド・カップというスポーツイベントをとおして、世界に発信されようとしていたのは、全世界の人種の熱狂を、自国の首都の歴史的・政治的装置のなかに引き入れ、みずからの歴史のパースペクティヴのなかに従わせようとする、<パリ>という徹底的に政治的な都市による<地球政治(ジェオポリティクス)>だったのだ。
最後にコンコルド広場の四方の入り口に到着し四者が東西南北から睨み合う態勢に入ったときはもう午後の十時半をすぎていてあたりはすっかり暗くなっていた。あまりにゆっくりとした事態の成り行き(あまりに巨人的な遅さ、退屈さ)にもううんざりしてどこかに姿をくらましてしまった人々も多かったし、結局はテレビでみる映像の方が全体を把握することをゆるすという意味ではこれもまたひどく現代的なメディア・イヴェントであったという感をまぬかれない。最後には、ブルボン宮からコンコルド橋を渡ってきた<ムーサ>、マドレーヌ寺院を背に進んでくる<ロメオ>、チュイルリーの方角から姿を現した<オー>、シャンゼリゼを降りてきた<パブロ>が、ジュリエット・ビノッシュのナレーションのもとに集合し、オベリスクの位置にしつらえられた緑の台のうえでワールドカップのレーザー光線が直径5メートルのボールの立体像をつくり、そのボールをつかって巨人たちがサッカーを演じてみせるという、たわいないといえばたわいない演出で終わったのだった。レーザー光線のボールの動きはテレビからしか見えなかったし、現場で見物していた人々には黒と白のストライプのエキストラたちのサッカーゲームに白けるだけだったかもしれない。観客の熱狂も半分ぐらいということだったと思う。しかし、それでも、街にすでに灯がともったなかを、最後にはコンピューターゲームのメディア空間に変容したコンコルド広場をフィールドに、四つの大陸から現れた四つの「人種」の巨人たちのプレーによって、ボールが交叉し飛び交うマルチ・カルチャーなサッカー・ゲームというアイデアは、この宵巨人を目撃した人々がよく口にのぼせた「fabueleux(空前絶後)!」という感想を引き起こさねばおかないものだったのだ。たしかに、それは、巨人のための道と化し、自らがとどめている様々なモニュメントと同じ背丈の人物たちを久かたぶりに迎えたパリから、記憶の組織体としての都市、シンボリックな都市の意味がたち上る夕べだった。
しかし、じっさいのフランス・チームが、この日のシナリオの狙いにほぼそのままに、マルチカルチャーな多民族国家としての<国民国家>の神話を再確認させ、勝利の夜には凱旋門に三色旗とジダンヌの肖像が映し出され、パリ解放以来の百万人の市民がシャンゼリゼに集まる騒ぎになろうとは、この夜は誰も信じてはいなかっただろう。
私たちが象徴都市パリにおいて出会っているのは、決定的に政治と結びついた都市の姿なのである。
2. 死の大軸線(グラン・タクス)上を歩く:<反-観光>としての...
あなたはいまエトワール広場の凱旋門の真下に立っている。パリを東西に貫くほぼ一直線の軸、デファンスのアルシュからエトワールの凱旋門を通って、シャンゼリゼをくだり、コンコルド広場、チュイルリー公園ルーブル宮を超え、シャトレ、パリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)を通ってバスティーユ広場へ、さらにナシオン広場へと抜けるほぼ一直線の軸が、パリという首都の<権力軸>であることは誰でもが知っている。毎年、七月十四日の革命記念日に、軍のパレードが通過するのもこの軸に沿ってだし、青白赤の三色旗の色の煙を吐いて空軍のミラージュ戦闘機の編隊が、文字どおり幾何学的な精度をもって正確にこの軸線上を飛び去る...。
首都パリを表象するモニュメントが並んでいるのもこの軸に沿ってだ。だから「本当の」観光をするためにはあなたはそこを歩いてみなければならない。九月のある日あなたはその本当の<観光>をしてみる気になってそのためにこの軸線上を歩いてみようということになったのだ。この観光はしかしもしかすると<反観光>とでもいうべきものになるはずである。というのも、もしもこの軸線の真上を正確に歩くことができたとすれば、あなたはそれら一連のパリのランドマーク(記念碑)の立っている垂直線上を歩いていくことになって、それらの象徴を横から見やりながらパリという都市を<表象する>ための距離を失ってしまうことになるからだ。それはまた、都市を気ままに探索しつつ読解する<遊歩>とは対極的な歩行になるはずである。<観光>とは、眼差しが他者の<象徴>を手がかりに他者の現実を想像することだとすると、その<象徴>が成立している現場の中に入ることは可能なのか?そのとき、あなたの足どりは象徴の否定性をなぞる歩み、象徴の否定性の痕跡を再び痕づける否定辞(pas)の跛行となるはずだ。象徴のなかには<ここ>はない、<いま>もない。<ここ>はここではないなにか別の場所を指しているのだし、<いま>はいまではない別の時を指しているからだ。象徴のなかではいつも<死>と<空虚>が語っている。
あなたがいま立っているパリの権力軸の起点、そこは凱旋門のアーチの真下だ。向こう側にはデファンスのアルシュを幾何学的な正確さで見透す、この巨大な石のアーチの下では、<無名戦士の墓>の炎が、共和国の国民の魂を立ち上げている--
「無名戦士の墓碑銘と墓ほどいちじるしいナショナリズムの近代文化をしめす徴はない。それらの墓は空であるかだれが埋められているのか分からないがゆえに儀式的な崇敬の対象となっているのであり、過去には例がないものだ。」
−−ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』
つい最近のこと、ワシントンのアーリントン墓地のヴェトナム戦争の「無名戦士」の墓は身元が判明してしまったけれど、1923年から眠っているこの「無名戦士」の墓は第一次世界大戦の800万の死者のうちのひとりであって、身元が知れる“心配”はないのだと当地の新聞では報じられた。ナポレオン戦争以来、いくつもの戦争と革命をへて、この巨大な門から出発して、絶対王政の秩序を共和国の歴史のなかへと転換してきた国民国家フランスの、建築的−都市計画的にもここが<共和国>への入り口なのである。無名戦士の墓は、首都の建築的パースペクティヴの視中心において、匿名の死という共和国の共同性の虚焦点をつくっている。国民の共和国においてはだれもが無名の死を死ぬことができることによって、共和国の代入可能な主体であることができるのだ。じっさい、パリほど精緻に<死>のシニフィアンをその機軸線上に並べた都市は他にない。デファンスのアルシュの彼方には公営墓地がひろがっている。これからあなたが歩き始める首都の東へと向かう線も、バスチーユ広場の円柱にいたるまで死の記念碑を並べているのだ。凱旋門の回りのエトワール広場の巨大なロータリーでは、そのようなこととはいっさい無縁に、「現代の日常生活」の車の雑多な流れが共和国の時間ー空間を静かに分泌しているこの<死>の共同性の周りをめぐっている。そのように静かに立ち上げられた共和国の無名で空虚な<魂>は、すでに凱旋門の<ナポレオン神話>にすくいとられ、外壁に塑像された<ラ・マルセイエーズ>の唄に運ばれることになる。<無名の死>によって、生の個別性を消し去り、<巨人たち>の声との関係のなかに入ること。国家の栄光の声の中に招じ入れられるとはそのようなことなのだ。あなたはもう先ほどまでの現代生活を離れて死者の魂に導かれて歴史のなかへと招き入れられていることになるのだ。人は象徴の中に入ることはできず、あなたはそのときすでに死んでいなければならない。死んだ者たちの声、死後の声、自らの声にかさなる背後からの声に導かれて、あなたは、この都市の死の軸線上を歩き出すことにあるのだ。
そのように歩き出せば、<シャン・ゼリゼ>はもうあの観光客やショッピングをする人々で賑わうパリの最大の目抜き通りではなく、「エリゼの野」の語源どおりに「英雄たちの魂が死後に行く冥界の野」、<死後のフィールド>に変貌している。あなたはいま「世界で最も美しい並木道(La
plus belle avenue)」をショッピングに歩いているのではないのだ。あなたの目の前では、さきほどまでジョルジュVのブティックやらソニーのショールームやらエール・フランスのオフィスやらリドをウィンドー・ショピングしながらのぼってきた天然色の通りはとつぜん異変をきたしたフィルムのように停止してしまい、にわかにモノクロに反転した光のなかを、あなたは静止して沈黙してしまった人々の間に口をあけた<別の時間>のなかでスローモーションのようにゆっくりとコンコルド広場の方へと降るようにすべり出す。あらゆる生の痕跡を消し去るようにして、あなたの前では、この巨大な通りの幾何学的な線はまっすぐに延びていく。ロン・ポワンで蝶結びのように円弧を両サイドに対照的にえがき、馬が水を吐く地点まで。先ほど後にしてきた無名戦士の墓のガスの炎のところからまっすぐに降りてきたとすれば、あなたは正確にシャンゼリゼ通りの中央分離線の真ん中の線上をまっすぐに歩いてゆくことになる。いまふりむけばあなたの位置からは、凱旋門のアーチをとおして向こう側にはデファンスの白いアルシュが同一線上の彼方に控えているはずだ。あなたはいま完全に国家権力の透視図法の中心線の上に立っているのである。
あなたはそしてゆっくりとシャンゼリゼをコンコルド広場の方まで降りてくる。右に「グランパレ」を、左に「エリゼ宮」をみながら、<歴史のオペラ>が、セイレーンの歌声のように聞こえてくるのもこの線上を歩くにつれてである。
そこを歩くと聞こえてくるのはもちろん<歴史の声>、<死>後の「墓の彼方」の声、巨人たちの声。<いま・ここ>ではなく<背後>の声。<ナポレオン>や<革命戦争>の声、第三共和国や国葬が通ったヴィクトル・ユーゴーの声。<不死の英雄たち>の声。<超越>と<歴史>の声が、このパースペクティヴの軸線にはこだましている。ここは国民の記憶の声の回廊なのだ。
コンコルド広場にちかづくと、こここそが歴史の声の合流点になっていることにきづくはずだ。ワールドカップのあの夜が示したように、じじつここは、あらゆる歴史のモニュメントのつくるこの都市の象徴的経路が合流する歴史の声の回廊となっている。グランパレやプティパレの方から、さらにその向こうのアレクサンドル三世橋を渡ってシャンド・マルスやアンヴァリッドの方から流れ込んでくる声、エリゼ宮の方角から響いてくる声。東西にシャンゼリゼとチュイルリーのルーヴル宮を対峙させ、二つの凱旋門を重ね、コンコルド橋をはさんで南北に国民議会のブルボン宮とマドレーヌ寺院のギリシャ神殿を正対面させ、あの夜の巨人たちの行進がたどってみせたように、首都の<東><西><南><北>のあらゆる記憶の場所へとつながっているこの広場。死の門を抜けエリゼの野をとおってきたあなたは、いま、四方に四つの徳の女神たちが座す歴史の真理の裁きの庭に歩み入ることになる。
ここもまた<死の広場>であることは、「ルイ十五世広場」、「革命広場」、「和解(コンコルド)広場」と名前を三度変えたこの広場が、たんに断頭台がここに立てられ大革命での王の処刑の記憶をとどめているからだけではない。なによりもその中心では、ルイ・フィリップによってルクソールから運ばれて建てられた<オベリスク>が、あの共和国の中心の広場の中点の空を指し示して立っているではないか。この四角錐状のモニュメントは、両側にギリシャ風神殿建築、前後にローマの凱旋門に囲まれて、文明の発祥の地としてのエジプトの記憶をとどめていて、それはもちろん植民地帝国による征服とそのオリエンタリズムの記念碑といえるのだが、象形文字を刻まれたその記念碑は、文字や記念碑の発生そのものをこそ指し示す始源の記念碑、死と象徴の成立をめぐる、ある根源的なモニュメントともいえるのだ。オリエント文明の発祥と自己の共和国の起源とを一致させようとする、帝国と文明による征服の中心点を象徴する象徴。このようにして、共和国の死の軸線の中点には、記念碑とはなにかという<始源のメタ記号>そのものが、都市の象徴装置の<臍>のように書き込まれているのだ。
あなたはさらに歩をすすめていくことになる。チュイルリー公園をぬけて、そこでは噴水さえもが、正確に死の軸線上に水を噴き上げている。カルーセルの凱旋門をとおして、オベリスクとエトワールの凱旋門は一直線に並び、晴れた日にはさらにデファンスのアルシュをのぞむこともできるだろう。ヘーゲルは、「記号とは、無関係な魂が運び込まれたピラミッドである」と述べて、<記号>と<ピラミッド>とを関連づけ、<ピラミッド>と<記号>と<魂>という原理的な問題連関を出発点に人間の文化の基本にある<構築された空間>と、<記号>とがある深い結びつきをもっていることを示した。その”始まりの建築”としてのピラミッドの開口部が、そこには開いている。もちろんそこは、ルーヴルのギャラリー(回廊)への入り口であって、あらゆる世界の記憶の回廊へとあなたは、象徴や記号のアントル(洞窟)の中を抜けていくことになるのだ。
ルーヴルを超えて、あなたがいまその上を歩いている死の権力軸はさらに延びていく。もちろんこれ以上じかにその軸線上を歩くことはじっさいにはできないのだけれど、このルーヴル宮を貫通して、ややセーヌに沿って屈折しながらも、あのリヴォリ街を超え、サマリテーヌの百貨店の脇をとおり、シャトレを越えて、共和国の始源の地、バスチーユ広場にまであなたは到達することになるのだ。新オペラ座建設いらい再開発がすすんでもっとも「ブランシェ」な界隈に変貌したこの地帯、バスティーユ広場では青銅の円柱が1830年の革命の死者たちをまつっている。さらにここを過ぎ、さらに直線上を東にむかえば、まさにそこは、「国民(ナシオン)」という名をもつ広場なのだ。
3. 記憶とアルケー:<メタ言語>としてのミッテラン建築
私たちがいままでたどってきた、この共和国の首都の死の軸線がつくりだす、記憶と象徴の回廊を知り尽くしていた権力者こそミッテランだった。かれは、<死>と<共和国>の通底をもっともよく知悉し、フランスという国民国家の書き換えを「都市政治」として実現したのだった。古代エジプトをこよなく愛し、自らも<スフィンクス>と呼ばれた人物は、おそらくこの都市の象徴系に最も精通した男だったのだ。かれがおこなおうとしたのは、たんにひどく大規模な都市計画というよりは、記号と記憶と政治をめぐるある本質的な連関にもとづいた<都市の新たなエクリチュール>だった。かれの「大計画(グラン・プロジェ)」に独裁者にありがちなたんなる誇大妄想的な夢想をみるのはまちがっている。かれの都市の政治学にはもっとしたたかで本質的にシニックな<死>と<象徴>をめぐる、<都市のアルケオロジー>が垣間見えている。それは、都市の根源にまでさかのぼって<政治=ポリス>の成立条件を考えようとするものだった。都市の政治的空間(ポリス空間)の成立の基盤そのものを変えようとするものだったのだから。
ミッテランの都市計画はいわば本歌取り(レプリック)とその転位のメタ手法にもとづいている。かれはパリの大権力軸(グラン・タクス)の両側に<デファンスのアルシュ>と<ルーヴルのピラミッド>を配置した。<アルシュ>はもちろん<凱旋門(アルク)>の反復であり、<ピラミッド>はコンコルド広場の<オベリスク>の転位となっている。かれは、<革命戦争>、<ナポレオン戦争>、<第三共和制>、<第一次世界大戦>、<パリ解放>といった、エトワールの凱旋門にむかって収斂する、おもに戦争記憶にもとづいた国民国家の起源的な権力軸を、ヨーロッパ統合とコミュニケーション・センターとしての<アルシュ>を新都心デファンス地区の高層ビル群に建設することで、ヨーロッパ統合とグローバル・コミュニケーションのヘゲモニーのパースペクティヴのなかに置いたのである。それは、これまで経験してきた数々の国民戦争は、ついにヨーロッパ統合によって成就し、共和国の理念が汎ヨーロッパ的な人権外交やハイ・テクノロジーに裏打ちされたコミュニケーション政策によって、フランスの覇権がヨーロッパの覇権として実現することを謳うためのものなのだ。
それに対して、ペイのルーヴルの<ピラミッド>は、コンコルド以東の権力軸を、<文化国家のポリティクス>へと屈折させる。コンコルド広場の<オベリスク>が植民地主義のオリエンタリズムにもとづいた、<文明>による世界支配の起点をしるす記念碑だとすれば、それを<死の権力軸>にそって反復し転位する建築はピラミッドでなければならなかったし、建築家もこの際やはり中国人でなければならなかったろう。ルーヴル宮の北翼から大蔵省をベルシー地区に移し、博物館の大改造がおこなわれたのもミッテラン時代だった。ガラスのピラミッドから、ルーヴル博物館という世界最大の記憶の回廊へと入るというコンセプトには、<記号>と<構築>をめぐる、ある根源的なメタ言説がこめられている。「ここにおいてわれわれは二重になった建築を眼前にする、その一方は地上に、他方は地下にある。地下の迷路、華麗で広大な空洞、半間マイルの長さの通路、象形文字に飾られた部屋、すべてが最大の心遣いでつくられている。これに加えるに、地上にはあの<ピラミッド>が代表するような驚異の建物が載せられている。」という、ヘーゲルの『美学』の一節は、そのまま、この<ヌヴォー・ルーヴル>の描写に重ねることもできるではないか。「記号とは無関係な霊魂が運び込まれたピラミッド」であるという<象徴>の有縁性と<記号>の恣意性をめぐるヘーゲルの記号論を思い起こそう。<象徴>は事物の死だが、死んだ事物の形象をまだとどめている。恣意的な<記号>は、その身体のなかに無関係な<霊魂=意味>をこめることができる。そのとき、<記号>は恣意的な<構築> --
つまり、<建築> -- として地上に隆起することができるのだ。オベリスクの象形文字は、象徴の発生を示す<記念碑の記念碑>として、共和国の広場の真ん中に据えられていた。そこから数千メートルの軸線上に口を開いたピラミッドは、記号の構築の始まりを表すと同時に、世界中のありとあらゆる芸術品という有縁的記号が並べられた地下の回廊へとつづいている。ヘーゲル的にいうならば、それは記号の発生と建築との分節する点を指し示す建築だということになるだろう。<文化の記憶>を遡り、建築や記念碑を分節する記号の<始源(アルケー)>へとつながっていくためには、このピラミッドは、地下へと半ば沈んでいる必要があったろう。
このように、ミッテランのエクリチュールによって、シャンゼリゼからデファンスの高層ビル群とオフィス街へとつづくコンコルド広場から上の軸線は外交および経済的ヘゲモニーの<地勢政治学(ジェオポリティクス)>のパースペクティヴへ、オベリスクから東の軸線は、普遍的な<文化の政治学>のパースペクティヴへと屈折させられたのだ。この巨大な<象徴政治>は、<都市(ポリス)>を書き変えることによって、フランスという国民国家の<記憶の身体>そのものを変容させようとするねらいをもつものだったのだ。さらに、この<文化の政治学>の東方軸上には、バスチーユ広場における新たなオペラ座として姿をあらわし、セーヌを隔てた東方では、ジャン・ヌーヴェルの「アラブ世界会館」がその透明なモザイク文様を輝かせて立つ。さらに、その東では、先端部から下をルーヴル宮の前庭にしずめたピラミッドが、<フランス国立図書館(通称フランソワ・ミッテラン図書館)>にその広大な基底部を露呈させている。
国民的栄光への入り口としての<アルク(門)>を、近未来のテクノロジー・コミュニケーション時代の<アルシュ(箱船)>に読み変え、他方では、その国民国家の政治軸を文明の<アルケー(始源)>への問いの軸線上に導き入れること。パリの<大軸(グラン・タクス)>にそって、<アルシュ>・<アルク>・<アルケー>という連辞をつくりながら、ミッテランの<大計画(グラン・プロジェ)>がおこなった<メタ言語的読み換え操作>は、ナポレオン戦争以後の国民的記憶をヨーロッパ統合の未来形へと転位し、植民地主義的帝国主義の記憶を百科全書的な世界の知の夢へと位相変換し、世界の歴史と自己の身体とを一致させようとする、国民の<記憶の身体>の大改造であったのだ。
赤バラを手に「われらの偉大な人間たちに」捧げられた、不死の殿堂<パンテオン>から1981年に姿をあらわした、この謎めいた小柄の男は、人々の生の温もりよりは死の虚無が与える確かな手触りを、理想の未来よりは共和国の<無の透視法>こそを信じていた。かれは、かれの存命中に、よりよい世界がこの地上に実現するなどと一度も本気で考えたことはなかったし、なぜ人々が社会主義などといううすっぺらな口上をいまだに真に受けるているのか理解できなかった。というのも、自分がこの国を少しでも変えることができるとすれば、それは不死との関係に手をつけることによってだ、とかれには思えたからだ。それ以後、<象徴政治>こそがかれの得意の領域となった。<大統領>のみが、この国では、死の彼方から語りかけることができる唯一の存在だからだ。
それにしても、<都市のポリティクス>ということばは、本来決定的なあるプレオナスムを抱え込んでいる。<都市(ポリス)>はもともと<政治体(ポリス)>であったのだとすれば、<都市計画>が<政治>そのものであることは当たり前といえば当たり前ではないか。<都市>と<政治>のリダンダントな関係の記号としての、<政治的な都市記号>は、自己言及的に巨大化し、必然的に空虚な記号になる。何の役にも立たない門(<凱旋門>)、巨大すぎるファサード(<マドレーヌ寺院>や<国民議会>の神殿建築)、無目的な塔(ヴァンドームやバスティーユの円柱)、というように。それらは、ほとんど、あの空洞な樹脂でできた巨人たちのためにのみ建っているのだ。
4. 林立する Phallus 群、あるいは、<真理>の共和国
しかし、じっさい、なんと多くのモニュメントがこの首都には林立し、大革命がもたらした<無の共和国>をその建築によって吊り上げ、<国民の空間>を立ち上げようとしてきたのだろう。二つの凱旋門、つくりかえられた神殿建築、ヴァンドームやバスチーユの青銅の円柱、ナポレオン建築はローマ都市に題材をとることによって、絶対王政の神権的秩序の崩壊をもちこたえ、それを<帝国>の神話に転位させたのだった。それはオスマンの改造をへて、しだいに<共和国>の空間へとつくりかえられた。パリは、王の眼差しの支配する神権的都市から、しだいに、<共和国>という<公共のモノ(res
publica)>たちの都市へと変貌したのだった。エッフェル塔やモンパルナス・タワーをはじめとして、その後も、この都市のランドマーク論争には事欠かない。ロラン・バルトは、「私たちが<固い核(ハードコア)>と呼んでいる、都市の中心部(いかなる都市にも中心部があります)の中心点は、なんらかの特殊な活動の頂点をなすわけではなく、共同体が中心についていだくイメージのいわば空虚な<発生源>をなしている。これは、いわば空虚な場なのだが、都市の他の部分を組織化するには、これが必要である。」と述べていた。このバルトの定式は、都市はつねに、「シニフィアンを代表するシニフィアン」としての「ファロス(象徴的男根)」をもつ、とラカン的に言い換えることもできる。「シニフィアンのシニフィアン」としての都市の<ファルス>。
そして、私は、パリにかくもファロスが林立するのは、この都市が歴史に対して強迫的に負うている<真理の問題系>のせいなのではないかと思っている。
公共の<モノ(Chose)>と都市(=政治)の<理由(Cause)>とが一致しなければならないことになった。そこで、「自由・平等・博愛」という共和国の合い言葉がすべての公共の建物のファサードには刻まれることになった。この<共和国の命令>をとおして成立したのは、都市の<真理のポリティクス>である。神の秩序の崩壊と<世俗化>が進行する共和国のなかでは、人間による支配と、<公共のモノ>が生み出す都市のディスクールとが一致しなければならない。大革命が示したように、<共和国>は、歴史の<真理>がつねにかけられた場所として、ここでは都市空間を組織した。店の名前や看板や広告塔やネオンサインや落書きが、ひとびとをイマジネールな言説の世界へと誘惑するはるか以前に、この町の空間にはまず<真理の言説>の記入があったのだ。ここでは、すべての公共のモノには、「張り紙禁止(defense
d’afficher )、18XX年の法律によって」と書かれている。「禁止ヲ禁止スル(defense
de défendre)」という六十八年の五月革命の有名になった落書きが示すように、「想像力が権力をとる」反乱はここでは<公共のシニファン>を乗っ取り逸脱させることから開始する。共和国は、公共のモノによって、土着の<身体>を殺し、信仰や神話を廃し、<他者>を殺す(例えば、イスラムのチャドルの着用は公立学校では禁止されるように)。そのことによって、ひとびとは、「自由」になり、「平等」になり、それぞれがお互いに「兄弟」になって、共和国の<象徴界=法>のもとに生まれ変わるのだ。共和国の<真理>の体制とは、そのように象徴的な<去勢>を前提としたものなのだ。ここでは、資本にせよ、移民にせよ、すべての<現実界(ル・レエル)>の流れは、共和国によって整流され、<権利の秩序>のなかに位置づけられる。想像することや夢みることさえもが、真理への権利を要求し、
いたるところに鏡を配して、ひとびとは自らの<自我>の真理を探そうとやっきになる。だから、この首都では、「知識人」という、公共のモノについて、公共のコトバをあてがう役割を担う<真理の住民たち>がかたちづくられることになる。
共和国の不死の死者のみを住民とした殿堂<パンテオン>(それはある意味では無名戦士の墓の対極である)の横で、<フロイト的なモノ>についての講義をつづけたラカン。かれはどのような都市のディスクールの断片を現働化しながら講義に通ったのかを確かめるために、ある日、かれの家の方へ歩いてみた。最短距離をいくとすれば、ムッシュー・ル・プランス街あたりからオデオンの方へ抜け、サンジェルマン・デ・プレを通ってリール街へと向かうコースだろう。もちろんリュクサンブール公園を通っていくにせよ、カルチエ・ラタンを横切って行くにせよ、いろいろな経路がある。
リール街は、サンジェルマン界隈からはそう遠くない、セーヌ河岸から一筋奥まった造幣館(モネ)の裏手、オルセー美術館の裏通りにあたる。うっかりすると見落として行き過ぎてしまいそうな、精神分析家にはぴったりのひそかな狭い通りだ。いまでは「作家協会」の館に使われている瀟洒な館もこの並びにあって、モンパルナスからデプレ近くまで商業化の波は押し寄せてきているが、忘れ去られてしまったような雰囲気を遺しているひっそりとしたこの通りの5番地にラカン博士のアパルトマンはある。「1941年から1981年までジャック・ラカン博士がここで精神分析を実践した」というまだそう古くはないベージュ色の石の記念プレートが掛けられている下の、緑色の鉄の扉を開いてなかにはいると中庭では敷石に以外に明るい禅寺の庭を思わせる木漏れ日が落ちている。さきほどまで歩いてきた、公共の空間から一瞬のうちにひどく遠いところにまで来てしまった感じなのだ。フロイトの家もウィーンの中心地からややはずれた「リング・シュトラッセ」にあったが、ここは、前の一角のせいでセーヌの方角もみえず、通りそのものもT字路で終わっていて、あらゆるパースペクティヴを失って、中に入ると<どこでもない場所>になっている具合なのだ。残念ながらアパルトマンを訪れることはできなかったが、私は、いつかヴィデオでみたボロメオの輪を思い出しながら、ラカン博士との対話を想像してみる。
-- なぜ共和国はファロスのようなものを必要としているのでしょうか?
-- 私たちの言語では、共和国はres publicaなのです。resはモノ、<モノChose>であると同時に<事由Cause>でもある。そしてそれは、つねに係争されている(en
cause)ものでもある。つまり、つねにことばの<真理の法廷>にかけられているものである。都市は、現実の場所を、人々の<真理>のつねにかけられた場所に変える。公共のモノとしての、<政治(ポリス)>の空間があるためには、あるがままの現実(レエル)が、<コーズ(大義)>の賭けられている<象徴の次元>に編入されるのでなければならない。
-- あれらの林立するファロス群は、歴史の真理のjouissance(悦楽=享受)のシニフィアンなのでしょうか?
-- むしろ<真理>は殺す、ということをいうシニフィアンでしょう。
5. Ceci tuera cela(コレがアレを殺す)
ビクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の中で、十五世紀のノートルダムの司教代理ピエール・ロンバールはニュンルンベルグで印刷されたばかりのグーテンベルク本を手に、書物と大伽藍を見比べながらメランコリックに呟くことになる。「これがあれを殺すことになろう(Ceci
tuera cela)」と。新しく出現した活字本が中世の聖なる都市の石のエクリチュールを駆逐することになる。ピエール・ロンバールが指さしてため息をついて、見比べたグーテンベルク本とノートルダムの大伽藍。その<グーテンベルク本>を四冊それぞれ四方に開いて立てた格好をして「フランス国立図書館(BNF)」は、いまではシテ島のノートルダムの大伽藍の彼方に立っている。「あれを殺す」はずであった「書物」の「これ」もまた、電子メディア革命によって「殺され」かけている。ミッテランの最後の建築「BNF」は、電子メディア時代の「ノートルダムの大伽藍」のレプリックなのだろか。その内側につくられてた内部庭園は、あるいはエスプラナードのわざわざ鉄の篭のなかに入れられた前栽は、「書物」の回廊のなかに閉じこもり「自然」の表象を護ろうとする、<閉じこもり>というあらたな象徴のポリティクスを示すものといえるのだろうか。<書物>の文明が後退しようとしているとき、
この<閉じこもり>の場所は、「世界の全ての知」をヴァーチャル化の大洪水から保存しようとする、あらたな「舟(ネフ)」なのだろうか? この国にありがちな<理念>と<現実>との乖離によって、国立図書館のリシュリュー街からの大引っ越しは、混乱と大規模なストライキを引き起こすことになってしまったけれど、あるいは、その手すりもなにもないピラミッドを思わせる木の階段のうえの広場は、今後何人の老研究者が足をすべらせて命を縮めるのかという危惧をもよおさせるようなものであるとはいえ、この<理念>はやはり雄弁なものだ。
いま都市のエクリチュールが直面しているのは、<メディア>による都市の浸食である。都市がヴァーチャル化し、都市自身が不可視なものとなるとき、建築のエクリチュールはどのような戦略が残されているのだろうか。外部にたいしては限りなく透明になりながら、しかし、内部には光や自然を採り入れているような、それ自身が内と外を位相的に反転させるようなメディアとしての建築は、<内向化>し<視えない>ものになっていく。それは、ジャン・ヌーヴェルの建築に代表されるように、息をひそめて呼吸し膜になることをめざす建築かもしれない。そのとき、あれほどまでに可視的であった<パリ>の石のエクリチュールもまた次第に消えていくということになるのだろうか。
「電子メディア革命」時代の新たな「コレがアレを殺す」という懸念は、まさに、この都市の建築の始まりにあった教会建築にも変化をもたらしている。デファンスの「アルシュ」のコンペに敗れてお蔵入りなっていたプランをもとに、その大きさを縮小して十五区に実現した新たな教会「ノートルダム・ド・ラルシュ・ダリアンス」は、正方形の開口部をいくつも開けた茶色のキューブを銀色の格子のフレームのなかに浮かべている。ここでも内と外との分節が流動化し、建物は内でも外でもない空間に宙づりにされている。これもまた新しいメディア時代にうかぶ<アルシュ(箱)>として教会建築を構想している例だけれど、竣工を記念しておこなわれたセレモニーでは、外壁いちめんにステンドグラスの代わりに、ビデオのモニターが吊るされ、教会はむしろ「スタジオ」といった感じだった。「小教区(パロワス)」の教会なのでとても小さな信徒区のユニットだが、ミサに参列してみた印象では、人々は情報の回路がつくる外にたいして、身を寄せあっているという感じなのだ。外壁いちめんには「聖母マリアへの祈りJe
vous salue Marie」ということばがプリントされている。
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ワールドカップの前夜祭の夜、電子技術はコンコルド広場を巨大なヴァーチャル空間に変貌させてみせた。私たちが、「始源の記念碑」だとみなした<オベリスク>が、レーザー光線によって<ワールドカップのトロフィー>に変容させられたとき、都市空間とヴァーチャル空間は反転したのだった。あの晩いらい、この首都はもう電脳空間のなかの記号列としての意味をしかもたないのかもしれない。<コンピューター・ゲーム>の<コレ>が、<アレ>を殺す、ということだろうか。
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