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<失われた十年>の祭り

天皇在位十年「国民祭典」を観て
初出:『世界』、2000年1月号


アクセスしてみるとうつるCOMPUTER SCREEN のなか
チカチカしてる文字 手を当ててみるとI feel so warm...
   宇多田ヒカル



皇居前広場 1999.11.12
 その夜のテレビ・ニュースでは、歓呼して打ちふられる日の丸の小旗や揺れる提灯が映し出されたし、翌朝の新聞には「祝いの人波3万人」などという見出しが躍っていた。しかし、ときおり小雨の降る薄ら寒い秋の夕暮れ時、静かに皇居前広場に集まって来た、群衆と呼ぶにはやや心細いほどの数の人々が経験したのは、そのような祝祭の華やかさとはほど遠い、こわばったとまどいの時間、あるちぐはぐな感じのつきまとう夕べだった。11月12日に行われた「天皇陛下御即位十年奉祝委員会」などの主催による「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の様子を報告してみる。

 「民間団体」が「主催」した(総理府、文部省などの官庁は、「後援」となっている)、この「国民祭典」を前に、「ためらい」は、いたるところに感じられた。この日は休日にもならず、式典の内容について前もって十分な報道も行われたとはいいがたい。マスコミの基調も、「奉祝」報道一色というよりは、「慎重な」姿勢に終始していた。だれもが、疑いと、とまどいと、ためらいを伴いつつ立ち会った、あるいは、やり過ごした「祭典」。それは、単なる無関心ではなくて、「曖昧なまま」にだれもが受け入れている「象徴天皇制」に、ひょっとして変更を加えることにつながる、という「ためらい」と「躊躇」だったかもしれない。もっといえば、首都の中心の二重橋という皇居と世俗的首都空間との中継点に、いま再び天皇が「国民」と「対面」して立ち「可視化」されること、そのように戦後の「象徴天皇制」が「変質」してしまうこと、そのことに人々は、ある逡巡を禁じ得なかったということだったのではなかったか。

 じっさい、天皇という<王の身体>は、芸能界のタレントやスポーツ選手とともに、メディア空間の中に、転位され変容してしまってよいものだろうか、とだれもが問うただろう。サブカルチャーによる文化序列の逆転を容認し、元ロック歌手のYOSHIKIの「奉祝曲」を受け取ってしまってよいものだろうか。明滅する大型ビジョンのスクリーンのなかに、それらのメディア人物たちの像と重ねられてしまってよいものなのか。「二重橋」上の王の身体は、そのようなスペクタクル社会における世俗と超越とをめぐる問いの中間にとどまっていたのだ。

 その日、午後二時から行われた政府主催の「天皇即位十周年記念式典」に合わせて国立劇場ちかくで開催された「日の丸・君が代の強制に反対する市民集会」での発言を終えた私は、午後三時半ごろから霞ヶ関方面から皇居外苑の方へ歩いていった。もちろん純粋観客として「群衆」のなかにいたわけではない。どのような人々が集まり、どのように反応しているのかを知りたくて、人々の輪の中に入ったのである。「国民祭典」で自作の「奉祝曲」を演奏することになっていた元 X-JAPANのYOSHIKIに対して、同僚の小森陽一氏が中心となって公表した「YOSHIKIへの公開質問状」を、手渡せるあてはなかったが、懐中に携えていた。その午後は曇りでうすら寒く、永田町界隈はいつものように灰色の光の中だった。日の丸があらゆるところに掲げられていたが、国会議事堂付近の街路では、アナン事務総長の訪日のために国連旗と組み合わされていた。


記憶のなかの<国民祭典>
 一九一九年七月一日「東京市欧州戦争講和記念祭」は、第一次世界大戦への参戦をへて、近代日本が国民国家としての立ち上げ期を一サイクル終え、帝国主義国家の仲間入りを果たした記念日である。その戦勝記念日の花火の音を聞きながら、永井荷風は、近代日本にどのように「国民の祭り」が定着してきたのかを、回顧していた。本誌九月号の拙稿(『スペクタクル社会の「日の丸」「君が代」』)でも書いたが、荷風は「麻布雑記」のなかで、いかに国家の祭りが、「国旗」や「提灯行列」や「読みにくい漢文調の言葉」といった象徴装置によって、民衆の土着の祭りを呑み込みつつ、「政治的策略」にもとづいて発明されたかを跡づけていた。作家に回顧されている「国民祭典」という、明治当時の「新しい形式の祭」は、今回も露骨な「政治的策略」をもって繰り返されることになった。なによりも、今度の「国民祭典」の主役は、「国旗と提灯」なのであり、八月の「国旗・国歌」法制化を受けて、「君が代」の斉唱と、「万歳三唱」を試す格好の機会となった。荷風によれば、一八九〇年の「明治憲法」国家の成立とともに、「英語の何とやらという語」(英語のLong Live the King ! や仏語のVive le Roi !)の対応物として「万歳」の三唱が発明され、「国民が国家に対して「万歳」を叫ぶ言葉を覚えた」のであり、そのときに「提灯行列」も作り出された。しかも、当時「文部省」の高官であった父は、その国民祭典の定着を率先して実行した、そして、荷風はそれは「何となくおかしい」と思った、と書かれているのである。「明治憲法」下の国民国家の五十数年、「戦後憲法」下の国民国家の五十数年ののち、ほぼ一世紀をへて、私たちは、ほぼまったく同じ問題の構図のなかにいるではないか。

 「新しい祭式」を再び導入しようとする「政治的策略」、復活させられようとする「提灯行列」、国家に対する国民の「万歳三唱」、「文部省」を始めとする「官庁」の指導、そして、それらを「何となくおかしい」と感じている私たち…。同じ皇居前広場と二重橋をいまふたたび舞台として、歴史は反復しようとしているのだろうか?


平成の「国民祭典」
 平成の「国民祭典」は、じっさい、明治の国民国家の新しい祭式が、土着的あるいは地縁的共同体の「氏神の祭礼」や「仏寺の開帳」、地方の祭式を統合していった、地方の祭りの国家統合の身ぶりを、忠実に、繰り返して繰り広げてみせていた。「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」のプログラムを見ると、第一部が、会場を皇居外苑内堀通り沿いとする、「祝賀パレード」となっており、「天皇陛下がこの十年の間に全国42の都道府県に行幸されたことを記念し、各地の郷土芸能を始め、各種音楽隊やブラスバンド隊が繰り出します。」と書かれている。その「祝賀パレード」は、警視庁、消防庁、自衛隊などの騎馬隊や音楽隊による「演奏パレード」の部と、「郷土芸能パレード」に分かれており、後者は、桔梗門辺から祝田橋辺までの皇居前広場の幅分をつかって、青森のねぶたを配したり、「鹿踊り」やら「阿波踊り」やら、全国の祭りを糾合して、明治天皇の「天皇巡幸」以来の国民統合の歴史と国民国家の祭りによる地方の土着の祭りの統合を重ね合わせている。じっさいに内堀通り沿いに、皇居外苑を縦断して順々に練り歩いた祭りの行列は、郷土芸能を「代表して」晴れがましく張り切ろうと意気込む祭り衆と、丸の内の高層ビル群を背景にあまりに人工的な皇居外苑の首都空間との、疎遠な関係だけを際だたせていたように思う。じっさい、祭りの行列を取り巻いていた人々は、おそらくはその多くが、それらの祭りや踊りに関係して上京してきた地方の関係者といった風采の人々だったし、薄ら寒い曇り空の下では、内堀通りのそれぞれの街灯に対に組まれた日章旗と提灯だけが、妙に冷ややかに季節はずれの祭りの隊列を見下ろしていた。集まった人々の表情は硬く押し黙っている。祭りのかけ声はかからない。首都のよそよそしい空間には、土着の祭りの熱は伝わらないのである。


「代表撮影」という報道管制

  ともあれ、日が暮れはじめた午後五時すぎには、皇居前広場ではこの夜のメインイベントである「祝賀式典」が始まろうとしていた。小雨がときどき降りしきる薄ら寒い灰色の秋の暮れ方だ。内堀通りを皇居に向かって二重橋の方から縦列にA、B、Cの区画に分けてゲートをつくり、入場を規制している。規制のための鉄柵がわざわざ手塗りペンキで紅白に塗り分けられている。主催者と警備陣のテントが並んだ中を、あらかじめ編集者に手に入れておいてもらった「入場整理券」を見せて広場の中に入っていく。警備はきつくはない。入場者の数も多くはない。なにしろこれだけの広さに対して、二万五千人の人出というのは、プロ野球チームの不人気カードくらいの観客数なのだ。入り口で日の丸の小旗をわたされる。しかし、「奉祝」と書かれた紅白の提灯は一個千円で売っている。若者たちはこの値段では買わない。買っていくのは、地方から上京してきた年配の人たちや、家族連れぐらいのものである。のちにマスコミに報道された「代表撮影」の写真や録画では、日の丸の小旗をうち振り提灯を掲げて歓呼する人々の姿が映し出されていたが、あれは明白な情報操作である。「入場整理券」によって、私たちが入場を指定されたのは「Cゲート」からだったが、主催者側は、A、B、Cと縦列の会場区画をつくることによって、祭典のステージが組まれた二重橋付近の空間に向かって間口が狭く奥行きの深い観客収容スペースとして「A区画」を作ることに成功した。そのことによって、二重橋に向かって、じっさいはさほど多くない観客から「大勢のひしめく群衆」のイメージ画面が作為的に作り出されたのである。それこそが、「代表撮影」という名で敷かれた今回の「報道管制」が生み出した事態なのである。駐車場のように符号で整理された柵の区切りに誘導されて、ひとびとはじっと無言で開始を待っている。すわる場所もないから人々は砂利の敷かれた場所で雨のなかに傘をさして立ちつくしている。あたりは次第に夕闇が濃くなって、遠くの方では、丸の内のオフィス・ビル群の光が宵闇に浮かび上がってくる。皇居に向かってA、B、C、それぞれの区画に設けられた大型スクリーン。先ほどまで強く降っていた雨に一斉に開いた傘に隠れて見えなかったのだけれど、この頃雨はしばらくあがって、自分たちの区画の前の大型ビジョンをひとびとはやっと眺めることができる。二重橋前に設営された仮説ステージは、私たちのいるC区画からははるか彼方、おそらく1キロ以上も離れていて、ステージがあることだけが、遠く照らし出された照明の広がりの一角として、かろうじて分かるだけである。


存在しない<共感の共同体>

 会場放送では、女性アナウンサーの声が、「提灯に火を灯して、あたりをいっせいに明るくしましょう」とひどく「公式的な口調」で告げている。しかし、一区分あたりに集まった人々に対して提灯を買ってきた人の数はひどく少ないから、あたりは暗い闇のままで、灯された提灯は、「ゲゲゲの鬼太郎」の場面を思わせる寂しい状態だ。五時四十分を過ぎて、佐渡の男たちの打ちならす大太鼓の音とともに式典は始まった。

 だれもが、昔の学校の朝礼や諸々の式典を思い出したろう。立たされたまま、退屈な紹介と挨拶が長々と続く。先ほどの、昔「ウグイス嬢」と呼ばれていた女性による場内放送や、ボケも突っ込みもない、アナウンサーによる真面目くさった司会の声など、ラジオやテレビが往時の国民大衆メディア時代に作り出した「国民的語り」の制度が、ここではまだ生きのびているかのようなのだ。じっさい、この晩、メディアに対する感受性の落差が、集まった人々を、はっきりと二つの集団に分けていった。年齢層も高く、おもに地方から祝賀にやってきた、あるいは、この機会に見物にやってきた人々が多くの割合を占めると思われるグループは、大型スクリーンの向こう側で進行している事態に静かにじっと見入っている。この時間を神妙に想い出に刻んだり、ときおりカメラをとりだして記念に画面の中を撮影したりしている。他方は、明らかにタレント目当てに集まった年齢層の低い、女子高生を中心とした若者たちのグループ。このグループは、大型スクリーンに対する完全に異なった感受性を身につけて集まっている。かれらにとって、「本物」のステージが肉眼で見えたり、スクリーンの向こう側でどのような事態が起こっているのかは、おそらくもはやどうでもいいことなのだ。何万の人々が集まるコンサートなどの集会に参加することとは、かれらにとって、おそらく、大型スクリーンを観ることそれ自体であるのだ。だから、かれらは、スクリーンにその瞬間「何が映っているか」によって、歓声をあげたり、悲鳴をあげたりする。ステージの上でなにが事実として進行しているかなどは、どうでもいいことなのだ。だから、かれらは、「君が代」が斉唱されていようが、森喜朗「奉祝国会議員連盟会長」が挨拶をする姿が映っていようが、その後列に、そして画面の一部にでも、GLAYが映れば、そくざにキャーと歓声を上げる。マクルーハンなら「クールなメディア」と呼んだかもしれない精度の低い「大型ビジョン」の画面は、事実を映し出すよりは、被写体をディジタルなイメージに解体することの方に威力を発揮する。この<低精度性>こそが、スターのアウラを生み出す鍵だというのが、「マリリン」の連作などに見られるアンディ・ウオーホルの教訓ではなかったか。とにかく、相互に、まったくことなったメディアとの関係、記憶と身体との関係を、人々はそれぞれが持とうとしていたのだ。

 そして、「各界著名人」の「ステージ登壇」にいたって、人々の退屈は頂点に達した。なにしろ、「芸能界・スポーツ界」より登壇する著名人は、それぞれのカテゴリーごとに一列に並び、名前を読み上げられて紹介されはするが、挨拶するのは、数列に一人、例えば、野茂英雄も松坂大輔もラモス瑠偉も中山雅史も、その他あらゆる競技の選手たちが登壇したスポーツ界を代表して挨拶したのは王監督ただ一人なのだ。他の登壇者は、並んで紹介されて一礼をして退くだけである。この「どっ白け」の事態に、人々からは悲鳴に似た溜め息がもれる。芸能グループも、 SPEEDが一礼し、安室奈美恵が紹介され、GLAYがTAKUROとJIROの二人だけで登場してぎこちなくお辞儀をしたときには、だまされたという思いと、あきらめの気分が若者グループには漂った。歌いそうにないということは、みんな、途中から分かってはいたけれど、「せめて挨拶ぐらいは…」と思っていたところ、指名されたのは、森繁久弥だったから、後ろの方で女子高校生が、「エー、ヤダー、どうしてあんなジイさんナノー」と絶望の声をあげる。壇上で一言インタビューを受けて、アムロは、「こんな日にみんなとここにいれて大変光栄です」と、ちゃんとした「ら抜き言葉」で応じていたが…。


二重橋上のロイヤル・カップル
  続いて、「天皇皇后両陛下のお出まし」となった。「両陛下がお出ましになるまで動かないでお待ちください」という先ほどの女性の声の場内アナウンスにも、立ち去っていく若者たちもいる。もちろん、肉眼では見えるわけではないから、大型スクリーンのなかに、橋の上から提灯を掲げてにこやかにうなずいている天皇・皇后の姿が現れる。年配の方の集団は、一斉に日の丸の小旗を揚げてスクリーンに対して礼を送っている。二重橋上の天皇・皇后の並んだ姿は、おそらくこれまでの歴代天皇・皇后のイメージのなかで、もっともヨーロピアンな「ロイヤル・カップル」にちかいものであるだろう。少なくとも、昭和天皇のときにはこのようなイメージをつくることはできなかったし、互いに微笑み合い、言葉をむつまじくささやき交わすカップルというのは、ある意味で、もっとも「戦後日本的」で「核家族的」な皇室の肖像であるといえるだろう。私たちは、「奉祝委員会」が立ち上げようとする「明治国家」的な天皇のイメージの演出とも、若者たちのメディア・カルチャーとも本来的に異質なイメージ体系を原質とする天皇自身のイメージ・ポリティクスにも十分に注目すべきなのだ。ベラスケスの「侍女たち」の部屋の奥の鏡にうっすらと像を浮かび上がらせた王夫婦の肖像のように、「国民祭典」のスクリーンの中央に遠くから姿を現した天皇カップルの姿は、「奉祝」しようとうする人々のアルカイックな象徴体系とも、芸能人が身にまとったメディアのサブカルチャーとも、まったく別のイメージ体系に属していることを示したのだ。この「違い」こそが、イメージとしての<世俗>からの<超越>を作るのだけれど、私たちは、平成の天皇がもたらしたイメージの原質の差が、「天皇制」のどのような新たな象徴政治へと導いていくのかに十分注意深くなければならないだろう。

 つづいて演奏された、元 X-J APANのYOSHIKIによる「奉祝曲」のピアノ・コンチェルトは、センチメンタルなアメリカ映画のサウンドトラックを想わせる、冗長な甘ったるいひどく凡庸で退屈な作品であったけれど、二重橋上で演奏に耳を傾ける天皇夫妻のスクリーン上のイメージは、ダイアナを追悼して演奏するエルトン・ジョンなどの記憶を媒介にして、ヨーロッパ的な王室イメージ群の方へと流れ出していったかもしれない。そこに人々が認めたのは、「映画のような」王室のイメージであり、それは、昭和の皇太子時代から、この夫妻が蓄えてきたイメージの原質の正確な延長上にあるものなのである。


困惑するJ-POPシンガーたち
 あたりはもうすっかり宵闇に包まれ、小渕内閣総理大臣による「国民を代表しての」棒読みの祝辞があり、そして、和服をまとったオペラ歌手による「君が代」の独唱があり、そして、「参加者全員による国歌「君が代」の大合唱」ということになった。

 会場には、もともと座る場所などないのだから「起立」する必要はない。皆立っている。暗闇のなかで、すすんで唱和する人たちの数は以外に多くない。「大合唱」にはほど遠い。若者たちはほとんど歌おうとしない。大型スクリーンに映し出されるスポーツ選手や芸能人たちも、曖昧に口を動かしている人も多い。集まった観衆のなかでの、年配と若者という二手の集団への分裂は、壇上の芸能界の歌手たちの側では、ほぼ演歌歌手たちのグループとJ-POP系の若手歌手たちのグループという二手の集団に対応していただろう。このような「国民祭典」では北島三郎や森進一といった演歌歌手たちは水を得た魚だ。すすんで「君が代」を大きな口をあけて歌っている。ところが、若手のJ-POPシンガーたちは、「君が代」を歌うことには見るからに困惑している。SPEEDもみな心細そうにあやふやに歌っている。アムロは、下を向いたまま、押し黙っている。明らかに歌っていない。「歌ってないね」とそばで誰かが云う。GLAYもTAKUROは口を動かしているけれど、JIROは不機嫌そうにうつむき加減に横を向いたままだ。もちろんこちらはスクリーン画面を見ているだけだから、彼らが本当にまったく歌わなかったのか、ハミング程度でお茶を濁したということにしたのか、真偽のほどは確認のしようがない。でも、アムロもGLAY(正確にいえば二人のうちJIROは)も「君が代」を歌わなかった(あるいは、歌わなかったように画面からは見えた)。なぜだろう? 歌詞を知らないということなのか。私はそのようなことではない、と勝手に推測している。もっと強い理由から歌うことができない、つまり、かれらの音楽的身体からして歌うことができない、ということなのではないか、と。

 だからこそかれらのファンも、「君が代」を歌えない。


空しい「万歳」
  会場は、夜闇に包まれ、サーチライトの光が天空をめざして垂直にまっすぐ何本も延びている。人々は、明かりの灯った高層ビル群を背景にして、天皇の「お言葉」に聞き入っていた。昭和天皇のような言語的特徴を人々に覚えられていない現在の天皇だが、ゆっくりとして抑揚のすくない発話は、これから人々に平成の「天皇の声」を記憶させることになるのだろうか。

  午後七時になろうとするころ、最後に出現したのが、おそらくは、もっともグロテスクな光景だった。「万歳三唱」は一回のはずだった。ところが、この「国民祭典」で主催した政治家たち自身に唯一全面的に任された時間こそ、この瞬間であったのだ。国家主義者たちにとって、国民を代表して、天皇を前に「万歳」を叫ぶ時ほど特権的な瞬間はないのだろう。「天皇・皇后両陛下」に対する「万歳」の三唱は、観衆からは、ほどほどの唱和をしか受けなかった。しかし、退場する天皇と皇后の姿が二重橋上から消えたあとも、弱々しかった唱和を無理にでも取り戻そうとするかのように、「天皇陛下バンザイ」、「天皇・皇后両陛下バンザイ」の叫びは、北島三郎、森進一、星野仙一らにマイクを回しながら続けられたのである。

 人々は家路を急ぎ始める。「バンザイ」を強要する叫びはそれでもまだ止もうとしない。「もういいよ、帰ろう」と人々は入場ゲートの方へ歩み始める。先ほどまでうち振っていた小旗をさっさと丸め、帰り支度を確かめている。人々はゲートを出て黙々と歩き、大手町の地下鉄の駅に入る頃には、日の丸の旗も提灯もみな仕舞われて、先ほどまでの「奉祝」の群衆は、匿名の「市民」へともどっていた。私自身は、提灯も日の丸もそのまま持って地下鉄に乗り込んでみたが、人々の冷たい眼差しにあって、提灯を畳み、日の丸の小旗は巻くことにした。


<失われた十年>の祭り
  翌日の「代表撮影」の報道が示そうとしたのは、「天皇在位十年」を「奉祝」し、歓呼して日の丸の小旗をうち振り、提灯を揺らす日本国民の姿であったろう。だが、そのような光景などいったいどこに見い出すことができたというのか。この夜、会場にいた人々は、いったい何を経験したというのか。芸能人を動員して、人々をかき集めるやり方。A、B、Cゲートに観客整理して、少ない数をできるだけ多く見せる「大群衆」の演出。強要される「バンザイ」。そこにあったのは、粗雑な祝祭の演出と、それらの祝祭の断片を寄せ集めて恣意的に配列して、「国民の祭典」のイメージを是が非でも作り出そうとする政治的意図、じっさいに参加した人々の<いま・ここ>の経験などどうでもいい、マスコミ報道向けのイメージさえ作り出すことができれば、というシニスムにみちた、「国家の祭式の政治的詐術」(荷風)である。

 この手応えのない「空虚」な経験。しかし、日本の社会全般に危機が進行し、「こんなはずではなかった」と日本人たちが自信を失いかけて来た、この「失われた十年」をへて、「国家の新しいかたち」を云い、「皇帝の新しい衣装」を喧伝しようとする凶々しい衣装屋たちの姿ははっきりしてきているのだ。人々はそのことに気づき始めている。そして、この空虚さの先に忍びよる不安な影を心の指でなぞり始めている。


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東京大学 大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻
石田英敬 研究室
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