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『情報学事典』での「記号論(記号学)」の解説

北川高嗣他編 『情報学事典』、弘文堂、2002年刊より


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記号学(記号論)
英語:Semiology (Semiotics) 仏語: sémiologie (sémiotique)
項目執筆者 石田英敬

 自然および人間の事象を記号および記号作用の観点から研究する一般学、「記号学Semiology」あるいは「記号論(Semiotics)」と呼ばれる。現代言語学の祖とされるスイスの言語学者ルイ・フェルディナン・ド・ソシュール(Louis Ferdinand de Saussure 1867-1914)が提唱したのが「記号学(sémiologie)」、アメリカの論理学者・哲学者チャールズ・サンダース・パース(Charles Senders Peirce 1839-1914)が構想したのが「記号論(Semiotics)」である。19世紀から20世紀への転回期にほぼ同時にしかしまったく別個に提唱された「記号学」と「記号論」は、20世紀の知の展開を通して結びつき、意味活動・記号現象をめぐるインターディシプリナリーな研究領域を創り出してきた。現在では「記号学」と「記号論」は、ほぼ同義とされる。

 記号学の根本概念は「記号」である。「記号(Sign)」とは、人間の意味活動を支えている「意味作用(Signification)」や「表象(Representation)」や「コミュニケーション(Communication)」の要素のことである。例えば、ある動物を指さして、ある人が「これはタヌキだ」と言った場合、「タヌキ」という単語は、指さされた動物に意味を与える「意味作用」の要素として、「記号」である。その場にはじっさいに動物はおらずタヌキが描かれた絵だけがおかれた状況を考えてみれば、タヌキの「絵」は、動物としてのタヌキを思い浮かべる「表象」の要素として、記号であるといえるだろう。記号は、「タヌキ」という言葉として「言語記号」であったり、タヌキの絵という「図像記号」であったりする。また、ある人が別の人に対して、「これはタヌキだ」と言葉で述べたり、タヌキの絵を示した場合のことを考えるとすれば、言語記号「タヌキ」や図像記号<タヌキの絵>は、人と人とを結ぶ「コミュニケーション」の要素でもあるだろう。「記号」とは、このように、「意味作用」や「表象作用」や「コミュニケーション」の要素のことであって、ここで挙げた例が示すように、それは、言語記号であったり、図像記号であったり、あるいはまた土の上に残された足跡をみてタヌキだと考える場合のように、事物のうえに物理的に残された痕跡であったりというように、様々な成立と様態をしている。そのような記号の成り立ちと作用とを研究する学問が記号学である。記号学の射程を理解するためには、例えば、メディアを通して世界を知るという私たちの日常生活を考えてみればよい。新聞やテレビやインターネットを通して私たちが毎日受け取っているのは多種多様な無数の記号である。それらの記号は、音声言語や文字といった「言語記号」か、写真や映像などの「図像記号」、あるいはまた、カメラの向こう側の被写体や人物が発する光や音声の痕跡としての記号(後述するパースのいう「指標記号」)から成り立っている。私たちの世界の「現実」を構成している、記号作用を捉えることに記号学は役立つのである。

 記号についての省察は哲学と同じように古い。言語や意味についての考察はプラトンやアリストテレスに遡ることができるし、記号の概念の定式化はストア派の哲学に先例を求めることもできる。近代にかぎっても「記号論 Semeiotics」の提唱はジョン・ロック(*1)に始まっているし、ライプニッツ(*2)による「普遍記号法」 の探求などに一般記号論の原型を見ることもできる 。しかし、現代的な意味における記号学はソシュールとパースに始まるとされる。(*3)その理由は、これら二人が創設した現代記号学が、20世紀以降の知の全体的な配置のなかで、人間の知、文化・社会の知、自然の知を、「記号の知」を通してまとめ上げる位置を占めることになったからである。
(*1)ジョン・ロック『人間悟性についての哲学的試論』
(*2)ゴットフリート・フォン・ライプニッツ『普遍記号法』
(*3)ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』、邦訳、平凡社を参照

 このうち、ソシュールの「記号学」は、言語記号の知から出発して、人間の記号活動として文化・社会を理解する道を拓いた。ソシュールにとって、言語学が研究対象とする「言語」とは、なによりもまず「記号のシステム」である。『一般言語学講義』によれば、「言語」は「観念を表現する記号のシステム」であって、身振り、文字、さまざまな象徴、道路標識や軍隊の信号などと、意味を生み出す「記号のシステム」であるという点において同列に比較し研究しうるものである。「記号学」とは、あらゆる種類の記号を対象に「社会のなかにおける記号の生活を研究する」ような、新しい一般学であって、「記号がなにから成り立ち、どんな法則が記号を支配するかを教えるであろう」とされる。ソシュール自身の仕事は「言語記号」の学としての現代言語学の創設にとどまった。ソシュールによれば「言語記号」とは、「シニフィアン(記号表現)」と「シニフィエ(記号内容)」の二つの面から成り立つ心的実体である。例えば、馬[uma]」という言語記号において、[uma]という音素の組み合わせが「シニフィアン」であり、それと表裏をなしている概念[馬]が「シニフィエ」である。記号においてシニフィアンとシニフィエの組み合わせは個別には決定されず、それぞれの記号は他のすべての記号と差異と対比の関係によって結ばれ「記号のシステム」を形づくっている。「記号のシステム」としての「言語体系(ラング)」は「語る主体」の脳のなかに潜勢態において存在すると想定されるが、ここの言語実現としての「ことば(パロール)」は、言語記号の「範列(パラディグム)」軸における選択と、「連辞(サンタグム)」における結合にもとづいて実現する。以上のような言語記号のシステムとその現働化のプロセスとして言語活動を説明しようとしたのがソシュールの一般言語学である。

 ソシュールによる記号学の構想は、ロシア・フォルマリズムやプラハ構造主義のなかに引き継がれ、言語学の枠を越えて、文学研究や映画、演劇、建築などの芸術理論、民話やフォークロアの研究に適用されて発展を遂げることになる。とりわけ、ロマン・ヤコブソン(Roman Jakobson)に代表される「構造主義」の運動が、ソシュールの「言語記号」説を言語学研究において押し進めるとともに、「記号のシステム」を「構造」と言い換えて文化事象一般に適用し大きな成果をあげることになる。人間の文化もまた、言語と同じように「記号のシステム」から成り立っていることが仮説として掲げられるようになるのである。構造主義の運動は、第二次世界大戦前のプラハ構造主義から、大戦後のフランスを中心とした戦後構造主義に分けられるが、構造主義をつらぬいているのは、「言語記号」をモデルとした、言語と文化との相同性の仮説である。記号学モデルを神話の分析や未開社会の親族構造の解明に応用したクロード・レヴィ=ストロースの社会人類学や、ソシュールの記号学をルイス・イエルムスレウの「共示」の概念を手がかりに発展させ、モードや広告など現代社会の文化現象を記号として解読したロラン・バルト(Roland Barthes) の記号学、「無意識は言語のように構造化されている」として人間の深層心理を言語モデルから説明したジャック・ラカン(Jacques Lacan 1901 _ 1981) の精神分析などが、ソシュール派記号学の20世紀後半における達成である。人間の無意識から、文化、社会のおよそあらゆる領域にいたるまでを説明する基礎理論として、記号学は発展したのである。情報学的見地からいえば、20世紀を通したソシュール派記号学の展開は、自然言語モデルにもとづく、文化および社会についての知の形式化のプロセスであったと理解することもできるであろう。

 他方、パースの記号論は、ソシュール派のような言語記号中心の記号学ではなく、中心を欠いた汎記号説である。パースにとって、万物は記号から成り立っており、人間的事象だけでなく自然の事象もまた記号である。パースの膨大な著作は、極めて多様な分野にわたっており、その統一を捉えにくいが、宇宙のあらゆる事象を無数の記号の「記号過程(Semiosis:セミオーシス)」と考えるところにその最大特徴がある。無数の記号を分類することが、パースの記号論の作業となる。パースは記号を成立させる関係性を「一次性、二次性、三次性」に区別し幾つもの基準にしたがって「記号分類」を行っている。そのなかでも有名なのは、記号と対象とが、類似性において結ばれた「図像」、指示関係によって結ばれた「指標」、取り決めによって結びついた「象徴」という三つの記号の区別である。ソシュール記号学が記号に内在的な意味作用を見ようとするのに対して、パースの記号論は解釈の理論であり、記号の「解釈作用(Intepretance)」は、「対象(Object)」、「表意体(Representamen)」、「解釈項(Interpretant)」の三項関係からなり、無限の「記号過程」の連鎖をつくるとされた。パース派の記号論は、人間事象以外にも記号論の適用範囲を拡大しトーマス・シービオックの「動物記号論」やホフマイヤーの「生命記号論」を可能にしたほか、言語によらない記号の成り立ちの研究や、「仮説形成(Abduction)」に見られるような「推論(Inherence)」の理論によって現代記号論と認知科学の接点をつくり出している。
Magritte
これはパイプではない
(ルネ・マグリット)
東京大学 大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻
石田英敬 研究室
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